車中パフォ−マンス

ペル−のあるアンブランテの話


1.
その日、僕は旅支度をして、朝の5時半に宿を出た。まだ人の往来がまばらで、冷え渡った街を歩くのが気持ちよかった。1週間の予定で、モケグワまで小旅行にでかけるつもりだ。長距離バスは朝6時出発予定だが、バス停にはまだ人が2、3人しか来ていない。待つこと2時間、8時になってバスはやっとバス停に横付けしたが、その頃までに発着場は乗客と物売りの喧騒とでごった返すほどになっていた。いよいよ乗車する段になると、戦争がひとしきり起こる。まず、乗客同志の席の奪い合い。もちろん座席は指定制だが、早い者勝ちで、ことはそうスム−ズに運ばない。これが一段落すると、物売りの女たちが津波のように車内に押し寄せてくる。通路を占領している荷物、通路にしゃがみ込むアイマラ族の老婆と孫娘の上を、彼女たちは飛ぶようにして食べ物を売り歩く。結局、バスは8時半に出発した。ここはペル−南部、チチカカ湖畔にあるプ−ノ市。時は1992年8月のことである。

僕を含めて乗客たちがやっと落ち着きを取り戻し、これから12時間近くかかるであろう旅の行程に思いを馳せている時のことである。軽装の旅支度で、通路の前部で人に揉まれながら立っていた1人の青年が、何かブツブツ喋り始めた。最初は低い声で、周りの乗客も怪訝そうであった。しかし、じきに彼の声は演説口調に変わっていた。バスガイドよろしく、車中の全員を相手に演説を始めたのである。ガタガタ揺れる車中で、マイクもないのに声はよくとおる。後部座席に座っていた僕の耳にも、鮮明に聞こえる。

彼の喋り口調は、ペル−の若者がおしなべてそうであるように、なかなか堂に入ったものである。話は、まず自分が生を受けたペル−国への賛辞に始まり、生れ故郷である町プ−ノへの賛辞、父母への感謝の辞へと続く。話が自分の生い立ちに入るあたりから、僕は、彼の目的は政治プロパガンダだろうと見当をつけた。閉ざされた車中で強制的に聞かされるその類の演説は、はた迷惑なものだと思い始めていた。しかし、そうではなかった。彼の話は、一向にその方向に進まない。よく見ると、胸の前にぶら下げているくたびれたジ−ンズサックはファスナ−が半開き状態になっていて、そこからは、チラシの束ではなくキャラメルの大袋がのぞいている。物売りだ。現に彼は、一言一言聴衆に語りかけるようにそしてやや得意げに自分の人生観を披瀝するあたりから、乗客全員にそのキャラメルを配り始めたのだ。受取りを拒否する者は誰もいない。たちまち、大袋は空っぽになっていった。拍手喝采のうちに演説を締めくくると、彼は、早速キャラメル代を徴収し始めた。何人かキャラメルを返却する者もいたが、ほとんど全員が快く代金を払った。もちろん僕もその一人である。だまされた気持ちはしなかった。彼は、全員に感謝を述べると、運転手グル−プに残りのキャラメルを分配し、さっさとバスを下りて行った。ふと気付くと、バスは人家を抜けて見渡すかぎりの荒野を走っている。こんな荒野で下車して彼は果たして帰途につけるかどうかと心配するより、僕は、その物売りの見事さに舌を巻いていた。

2.
感心したことは、まだ他にもある。街頭の物売りの場合でも、大演説をぶつケ−スをしばしば見る。それはたいてい人集めが目的であり、一旦人の輪が出来てしまえば、口上はおのずと売り商品に移っていく。これに対して、バスの青年の演説の特徴は、大言壮語の話で終始一貫しているところだ。最後まで、キャラメルのキャの字も出てこないばかりか、生活の窮状を訴えてどうかこれを買って頂きたいという態度もない。つまり、彼の場合、大演説というパフォ−マンスそのものが商品なのであって、キャラメルは附属品、オアシ稼ぎのシルシに過ぎないのだ。

さて、僕としては、あの青年が演じた種類の物売りにおめにかかったのは、この時が初めてだった。もっとも、バス車中での物売りに会うこと自体は、特別珍しいことではない。首都リマでは、物売りをしている路上の子供が、時々バスに飛び乗ってきて、キャラメル、チュ−インガム、飲み物を売り付けては次のバス停で降りていく姿をよく見る。さらに、出発前のバスに押し寄せてくる物売りのあの女たちには常に圧倒されっぱなしだ。しかし、あの青年の振る舞い方には今までにない何かしら新鮮なものを感じたのである。

僕は、このバス旅行からほどなくして、この種の車中パフォ−マンスにしばしば出くわすことになる。特にプ−ノとアレキ−パを中心とした長距離バス路線で続々と見かけるようになった。キャラメルがシルシに使われていること、どの演説にも内容と形態に強い類似性があること、そしてまだあまり派生型が現われていないことから判断して、たぶん一人の成功例が順次伝播して行ったのであろう。地域的な広がりでみると、この年クスコ地方ではまだこれにおめにかかっていない。ただ、今年(1994年)、アバンカイからクスコへの帰途の車中で似たようなパフォ−マンスに出くわした。ただし、ここではゼロックスコピ−製のセサ−ル・バジェホの詩集が販売に供されており、多分これは別系統に属する。これらのことから考えても、上記の物売り法は全くの新種であり、まだそれほど広まっていないと推定される。

何度かこのような物売りに出くわしたある時、1回の車中パフォ−マンスで彼らは一体いくらぐらい儲けるのか気になった。今その時のメモを見てみると、売上金700円(為替レ−ト換算)とある。また、キャラメル卸用大袋は、コントラバンド(密輸品)市場で500円程度で売っているのを知っている。したがって、もちろん彼らは市場でそれをかなり安く手に入れるであろうが、儲けはせいぜい300円程度ということになる。40分ばかりの熱演の代償が300円というのは、多いいのか少ないのか。

もっとも、1日に3回演じるチャンスが彼らにあるとすれば、儲けは1,000円近くになる。これは、決して悪い商売ではない。しかし、それは物理的にかなり難しいように思われる。というのは、この物売りは、長距離バスに限られ、しかも出発直後しか成功しない。さらに、一度商売をしたら、彼らは荒野から何らかの方法で町に戻ってこなければならないのだ。また、戻ってきたところで、長距離バスは朝夕の同じ時間帯にほぼ一斉に出発するので、日に2回が限度だ。この物売り方法の急速の拡散と地域限定性の背後には、この商売に特有なこのようなウマ味と難しさがあるように思われる。

3.
さて、このような物売りのことをラテンアメリカではvendedor ambulante、ちぢめてアンブランテという。つまり、歩きながらの物売りという意味で、これは行商人をさす言葉だ。本来は店舗を持たない商売人のはずだが、路上にキオスクのような仮設店舗を勝手に設けて商いをする者もアンブランテという。この広義のアンブランテは、現在の日本と一部の国を除けば、世界中どこにでも数多く見受けられる。

しかし、その数の多さでいえば、ラテンアメリカの中では、ペル−が群を抜いているだろう。今日のペル−ではアンブランテにも消費税のような間接税を課すことがフジモリ政権下で政治日程にのぼっており、このことから推しても、経済活動に占める彼らの比重の大きさが浮き彫りになってくる。もちろん、この社会情況を理解しようとすれば多角的な分析が必要であると思われるが、ここはその場所ではない。今、少し触れておきたいのは、市場経済と伝統社会の臨界面で生きるアンブランテたちが、この両極に対してとるスタンスについてである。

まづ最初に、市場経済と彼らとの関係であるが、確かにペル−経済の中で大きな比重を占めるとはいえ、アンブランテがこの国の市場経済の屋台骨を支えているとは決して思われない。彼らは、やはり資本主義の中での「すき間産業」の従事者なのだ。しかし、機を見るに敏といわれる「すき間産業」が、そもそも市場経済にとって単なる夾雑物にすぎないのかどうか。むしろ、このような活動が自由に発生し得ることが、市場経済がもつ強靭さの証しなのではないかと思える。もちろんここで視野に入れているのは、資本主義の成長性ではなく、そのしたたかさ、持続性の側面である。

アジアNIEs型の「開発主義国家」の経済成長、あるいは、EUNAFTA型の市場ブロック化の将来性などを見ても、経済の成長性は、現実には政治指導性の問題に深く関わっている。ペル−現政権が、この国の経済をどの方向に導こうとしているかは定かではないが、たぶんフリードマンの唱える「新自由主義」路線であろうことは、ほぼ推測できる。いずれにせよ、国家戦略は、経済の持続性とは別次元のことがらである。

アンブランテたちが国民経済に対してとるスタンスは、周辺に陣取りながら市場経済の隙間をその逞しさをもって埋めていること、そしてその中心部に向けて限りない活力を注入していることなど、国民経済の持続性にとってかなり積極的なものであるといえよう。彼らは、あわよくば小銭を蓄えて店を持ちたいと思う以外に、その立場を意図的に演じているわけでは決してない。しかし、意図せざる結果としてその役を果たしているといえないだろうか。

4.
一方、彼らの伝統社会に対するスタンスは、市場経済に対するそれとちょっと様相が異なるようだ。ここで伝統社会というのは、周知ように、アンデス農牧民の間で見られる自給自足を基本としながら交換経済を補助的に営む社会のことで、それは互酬的依存関係、社会の定常性を特徴としている。

さて、ここで見落としてならないことは、アンブランテたちの多くは伝統社会の1員であるか、あるいはそこへ帰省地を持っているという事実である。例えば、一時期ペル−では、ゲリラに村を襲われて村民丸ごとが「難民」状態で都市部に流出することがあった。それは、大きな都市問題を引き起こし、アンブランテを急増させる原因にもなっていた。しかし今日、彼らは村に帰り始めている。村に帰りさえすれば、いくつかの新しい要素の導入は避けられないであろうが、再び伝統的な村社会の生活が開始されるだろう。

ゲリラ難民は、ちょっと特殊なケ−スであるが、もっと長い目で見るとどうか。農村人口が漸次的に流出してアンブランテの世界が形成されることが、農村部での伝統社会の存続に寄与しているといわれる。つまり、彼らが市場経済と伝統社会の間に臨界層をつくっていることが、ひいては彼ら自身が(全員でないにしろ)帰るべき基地を確保していることにつながっているのである。

いずれにせよ、社会成層の文脈から彼らは明らかに伝統社会の側に立っている。そのような彼らが一旦町に出てアンブランテとして活動しようとする時、伝統社会にいる時とまったく異なった振る舞い方をするのが観察される。そこでは、伝統社会の中での依存性に対して不安定であるが自立性を、不活発な慣習性に対しては大胆な明るさを遺憾なく発揮する。このように2つの世界を行き来する彼らには、常に、2つの顔が見え隠れする。僕には、そのように映る。しかし、困ったことに、彼らはそれが1つの連続性であるかのように振る舞うのだ。つまり、彼らの市場経済と伝統社会に対するスタンスとは、両者を「切って結ぶ」行為のように思える。

プ−ノ・モケグワ間の長距離バスの中で大パフォ−マンスをやってのけたあの青年もアンブランデの1人であるかぎり、きっとこのような文脈の中にとらわれているだろう。しかし、その全ての振る舞い方がこのようなことで解釈がつくとも思われない。いずれにせよ、彼の大胆なまでのあの明るさが今も忘れられないでいる。


12.1994 (学生雑誌に掲載)

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