「インディオ」との付き合いは楽じゃない!

Cómo ser amigo de los indios

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 先住民(インディオ)集落を訪ねるには、大きくいって、二つの困難が立ち塞がっているといえそうだ。一つは、集落へのアクセスに関するものであり、二つ目は、集落への入村と滞在にまつわる事柄である。一昔前までは、地方都市からいずれかの先住民村へ行くには、トラック便か馬(あるいは手漕ぎボート)に手段が限られていた。しかし、近年その様相は一変した。今ではほとんどの集落までバス便・トラック便が通っているし、手づるを使えば、ピックアップ・トラックを容易に借りることができる。また、船もほとんどが性能のいい船外機付である。したがって、アクセスに関する困難は、近年大幅に軽減されてきたといえるだろう。しかし、二つ目の入村に関する厄介事は、今も昔もほとんど変わらず、人類学調査に携わる僕のような者にとって本質的な困難をなしている。

一般的にいって、初めて出逢う人物から見えて来る人物像は、出逢いの場所の特定性、あるいは紹介者のステイタスなどによって大きく左右されるものである。先住民集落を訪ねる場合も、そのことは極めて大きな問題となってくる。この場合、出逢いの場所は、相手の集落を訪ねるのであるから、相手の土俵に入り込んで相対することになる。だが、問題は誰を介在させてそこに潜り込むかである。しかも、ターゲットとして選んだ集落への仲介者はそう多くはなく、選択の余地はほとんどないことが多い。

2
南米のペルー・ボリビア国境地帯、そのアンデス山中にチチカカ湖と呼ばれる大きな湖があるが、そこからさらにアンデス分水嶺に向かって登り詰めた所に、パスト・グランデと呼ばれる村がある。典型的なリャマ・アルパカ牧民集落である。ここで、僕は長年調査をしてきたが、最初の頃は調査に成功したとはいい難たかった。ある程度の予備知識は持っていたが、その村に関するより具体的な情報は、麓の町マソ・クルスで収集した。とくに、その町で宿屋を営む嘗てのアシェンダ領主ゴンサーレス家の人々から多くの有益な情報を得ることができた。このような成り行きから、結局、ゴンザーレス家の一使用人をアイマラ語の通訳兼案内人として雇い、僕はパスト・グランデ村に向かった。マソ・クルスで何人かの村民とすでに知り合いになっていたが、彼等の土俵である村に足を一歩踏み入れてみると、事態は一変したのだった。

アサンブレアと呼ばれる村民集会に案内人と一緒に呼び出されたが、そこは「よそ者」の首実検の場であり、僕たちは完全に旧アシェンダ領主の回し者とみなされ、調査協力はおろか,村の滞在も危うい情況になったのだった。同じ年の二回目の訪問では、さらに事態が悪化した。同年は、寒冷な年でリャマ・アルパカの幼獣死亡率が高かった。そこに「霊能力者」なる者が現れ、この災いの一因は僕たち「よそ者」の来訪だという噂を広めたのである。それでも、僕たちは村に居座り続け聞採り活動を続けたが、牧民の世界観とその独自の社会組織を解き明かそうという当初の目論見は、どんどん萎んでいったのだった。

同じようなことは、その後いろいろな所で経験することになる。同じチチカカ湖の対岸の牧民集落ウリャ・ウリャへはカナダのNGOと一緒に行動したし、アンデス東側斜面にある新入植村プティーナ・プンコへはペルー農業省の役人と一緒に訪問した。また、ペルー領アマゾンにあるソネネ村へは、科学的調査を前面に打ち出して接近した。しかし、いずれの場合も、僕たちは色眼鏡で見られ、一部の老人を除けば、先住民の彼等は決してその本当の姿を見せようとはしなかった。調査者の僕はといえば、同行者の背後からその肩越しに先住民を観察し、時々彼等と同行者の会話に割って入る程度なのだ。これが、当時の人類学者としての僕の偽らざる自画像であった。もちろん、それで事足りる調査活動もあるにはあったのであるが。

3
パスト・グランデでの調査は、四回目の訪問の際、ある偶然の出来事から、劇的に変化した。それは、ダム建設の問題を巡って、村民と旧アシェンダ領主のゴンサーレスが鋭く対立したことがキッカケであった。村の小学校でゴンサーレス家を交えて何回かアサンブレアが開かれ、その度に激しい応酬が交わされた。そんな折、今となってはもう詳しい経緯を思い出せないが、僕が村民の態度に賛成する旨の演説をした。そのことが、両者の力関係に何か影響を与えたとは思えないが、ともかく、村民にもゴンサーレス家にも新鮮な驚きを与えたことだけは確かであった。その後、しばらくゴンサーレス家とは気まずい関係になったが、村民との関係は劇的に変化した。つまり、村民は僕を「身内」として扱い始めたのである。この事があってからは、僕の村での活動はかなり順調に進んで、別れ際には、皆から「次は何時戻ってくるんだい」と挨拶されるまでになったのだ。

 先住民集落が持つこのような頑固な閉鎖的体質を、僕は「選択的透過性」と呼んでいる。つまり、村は一つの生きた細胞なのである。細胞組織は、よそ者・身内、有害・有益、の判断を選択的に行う機構を常に活性かさせているのである。僕はやっと、細胞組織によって身内と認定された訳だが、人類学調査は、ここまで調査対象に埋没すべきではないという議論も有りうるだろう。しかし、内部に埋没しなければ見えてこない民族誌的な真実もあることを忘れるべきではないと思う。


Pasto Grande のある牧民家族と筆者

余談になるが、その後ゴンサーレス家と僕との関係はどうなったのだろうか。さすがゴンサーレスは、落ちぶれたとはいえ、旧領主である。僕よりはるかに度量が広いのだ。関係修復は、彼のほうから提示された。一人娘の「初髪切り儀礼」ルトゥーチェでパドリーノを引き受けてくれないかという申し出でが僕にあった。もちろん喜んでそれを引き受けた。さらに、彼女の初聖体拝領の折にもパドリーノの役をかってでた。今では、僕とゴンサーレス家は「コンパードレ!」で呼び合う仲なのである。

(WINTER.2010. iichiko no.105. 「ラテンアメリカの文化学」に掲載)

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