「核」の現実 (2) 二種類の原子力科学者: 科学の力に信をおく者 と 本当は信をおいていない者

「核の現実」のシリーズには、次回用として包括的な歴史的考察を行う準備をしている。その際、以前取上げたことのある天木直人氏の戦略提言「もう一つの日本」に関して、同氏が新たに「日刊ゲンダイ」誌に寄稿した記事を取上げる予定だが、遅々として進んでいない。そこで今回は、緊急避難的に原子力科学者武田邦彦氏の最新のブログ記事へのコメントを書くことにした。

武田邦彦のブログ記事はいつも注目して読んでいる。彼の原理主義的というか、どのような事態に立ち至ろうと科学者としての原則を変えようとしない矜持に満ちた態度が解りやすい。特に放射線許容量の上限に関して彼は一貫していて、「年間1ミリシーベルト」を貫いている。かなり前から、各方面からのこの件に関する情報はグジャグジャで訳がわからなくなっている。日本の「公認」の上限も、核事故に場当たり的に対処する必要から、なし崩し的に変化させているので不信感があおられる。このような状況下で、武田邦彦が自分の主張点の日本に於ける位置を見定めようと作業を開始したのが、

「科学者の日記110526」「みんな死ぬのだから…という論理を考える
( 2011年5月26日木曜 正午)である。
さらに、
神になった人たちのリスト 
(2011年5月30日 午前9時)もそれに続く位置にある。

武田の記事の要点は以下のようなものだ。日本の法律では「1年1ミリシーベルト」が被曝限度だが、現在「1年100ミリまで大丈夫」と言い始めた論者がふえている。彼等の「大丈夫」発言は、科学的・法律的にに根拠がない。ところが、「1年100ミリの被曝で、ガンが0.5%増える、(つまり)1億人で1年に50万人の年齢に無関係の新たなガン発生がある」という事実認識では、「大丈夫」論者と武田は認識を共有しているのだ。

しかし、武田と彼等が大きな違いは、その事実に対して評価を下すときの背景にある考え、思想の相違なのである。武田はいう。


彼らの言うことに耳を傾けてみると、その中心的な考えは"、「人間はどうせ死ぬのだから、放射線で死んでも良い。死亡率は100%、ガンで死ぬ人は30%だから、1年100ミリで0.5%が死んでも問題は無い」ということだ。
(これは)「健康」に関する思想の大転換である。人間は最終的には死ぬ。だから人生の目的は死ぬことである。従って、早く死んだ方が早く人生の目的を達成することができるということでもある。
私は、このような考えはまだ納得していない。人間はできるだけ健康で長生きすることが良いと思うし、人間の目的は死ぬことではなく、毎日の生を楽しむことにあると思っている.
(この新しい考えは)たしかに歴史的に見ることができない、画期的な思想だ。福島原発事故というのがあまりにも大きかったので、このような新しい思想が誕生したのだろう。
この衝撃的な新しい哲学は、自己矛盾を含んでいるように見える。…現実には、福島原発が起こって、突然、新しい哲学が提供され、それを多くの指導者や知識人が支持している。 結果的には、この考えによって現在、「子供達を被曝させる」ということになっているが、それも含めて、早い内に新しい考えの方と深い議論をしてみたい。

明白なことは、武田が原理主義的であるのに対して、多くの原子力知識人さらに政治家、評論家がいとも簡単に原則を変更してしまうということだ。彼等に、原則の変更の根拠など問いただしたところで、何の意味もないだろう。そこに説得にたる科学的根拠など有ろうはずが無いからである。そうではなくて、武田が言うように、彼等は衝撃的で制御不能に近い事態に直面して、価値判断を変更せざるを得なかったのである。そこには、価値判断を変更するために要する熟慮と冷静さ、それらの冷静さのカケラも感じられない。

ではなぜ多くの原子力学者が、こんなに慌てて価値判断を変更するのか。それが、単なる政治的配慮によるだけではないとすれば、基本的に、彼等が原子力という異次元のエネルギーを扱う科学的知見と工学的手段に本当には信を置いていないからだと思う。平常時でも「原発は安全」とまさに新興宗教ばりのプロパガンダをおこない、それがために、緊急時の対策を十分に講じてこなかったことも、同じ科学に対する「不信」に根ざしているに違いない。

逆に、原理主義者の武田の態度は、原子力という手ごわい相手に対しても人間の科学力に信を置いている者のそれである。原則を容易に変えないのは、「年間1ミリシーベルト」という基準に冷静な科学的知見が投入されているからであり、それに基づいて被爆による健康障害を最小限度に減らす手立てを提言するのが、科学者の態度だと考えるからだ。これは、科学つまり人間力に対する全面的な信頼である。

いま、政治家菅直人の錯誤がもたらしものかどうかをおくとして、手に負えなくなった福島第一原発事故の現状に対して、人間の健康を守ろうとすると、武田の提言を基準にする以外にないだろう。そのためには、ありあわせの資源の投入では到底間に合わない、将来の経済成長を犠牲にした国家的資源の動員を必要とするはずだ。それを可能にするためには、ちょっともう遅いが、非常事態省を立ち上げ、そこへの全権委任がどうしても必要だ。もちろん、国家的対応で十分なわけではない。住民が自主的に放射能に対する自分の健康防衛に向けはっきりした行動に出る必要があるだろうし、これが一番重要なことである。

しかし、ここで私が本当に言いたいことは、原子力という宇宙エネルギーに対する人間力である科学の有効性についてである。そして、その認識に基づいて、再度、新たな行動を起さなければならないということである。

「核の現実(1)」で触れたように、いかにミニチュアにサイズダウンしたとはいえ、原発は核エネルギーという宇宙エネルギーを利用しようというたくらみである。人間の知識である科学は、そこでは、常に人間力を超えた物理現象にでくわす宿命にある。それは、人間が、武田のように科学に信を置こうが、多くの原子力科学者がそうであるように本当には信を置ていなかろうが、「想定外」の物理現象が常にたち現れてくるということだ。このことを片時も忘れるべきではない。そして、このことを起点にして新しい運動を起さなければならないのである。


追加 1(6月8日)
その後、武田邦彦は、
科学者の日記110607 「原理原則」は大切なこと (2011年6月7日 午後3時 )
を書いておられる。ちょっと長いがその中から核心部分を引用しよう。

私が厳しいことを言うものですから、放射線の強いところに住んでおられて移動できない人から、かなり厳しい指摘を受けます。それについて一言、私の気持ちを書きたいと思います。私には本当にはお気持ちが判らないかも知れませんが、おそらくストレスの強い、辛い日々と思います。
でも、もし今、「100ミリでよい、20ミリで良い」となると、東電も政府も自治体も土地を、そのままにして以前に戻そうとしないでしょう。それは、これから100年(半減期の30年の3倍)もの間、私たちの子孫が汚染された土地で生活することになります。 農作物もずっと「汚染されたもの」というレッテルを貼られます。それは農家の方にとって耐えられないことでしょう。
チェルノブイリでは25年経って、今でも汚染地帯は無人ですが、日本はそんなことは出来ません。だから、今、少し辛くてもこれまでの基準を守り、国際的にも問題がない、綺麗な大地を取り戻すことだけが大切ではないでしょうか? どこまで綺麗にできるかは不明なところもありますが、単なる「粉」が土の上にあるだけですから、国が全力を挙げて「粉」を取り去る行動をするべきです。
東電の責任、賠償問題、それに国会などでは官僚の責任問題に関心が集まっていますが、私は責任問題を議論する前に、まずは福島を綺麗にして欲しいと思っています。 官僚を処罰しても汚染された土地が残れば、被害は続くからです。
すでに日本政府はムチャクチャになっていますが、かくなる上は次の選挙まで国民は「政府はいない」ということを覚悟して自衛に勤め、次の選挙では本当に国民の健康を考えてくれる人に投票したいものです。

私は同氏の意見を全面的に支持します。同氏の提言は、だんだん天木直人氏の提言「もう一つの日本をつくろう」に類似してきているように感じられるのが、興味深い。

口先だけではない具体的な原発の全面見直しに取り組むことは、絶対に必要です。しかし、それは中長期の方針です。拙速は避けるべきです。まづ、これまでの原発推進という「国策」を覆す難問が立ちはだかっており、行政的にも政治的にも、さらに経済社会的にも斬新で断固とした運動の芽生えが必要でしょう。ともかく今は、現状の打開が優先されなければならないことは、言を待ちません。


追加 2(6月18日)
最近同氏は、「1年1mSv」という基準について、ちょっとニュアンスの違う言い方をはじめた。
医学とコンセンサス  被曝の危険性」(2011年6月10日 午前8時)
の中で、以下のように述べている。

放射線の被曝によるガンや遺伝性疾患の発生の)事実は次のようなことです。これさえシッカリと判っていれば不安になることはありません.
1) 医学的に判らないのだから、医者や研究機関に聞いてもムダである。
2) しかし海外旅行に安心して行くためには、どの国も同じ基準で規制してくれることが必須。
3) そこで、「医学的ではなく」(ここが大切)、「コンセンサス(みんなでとりあえず決めておく)で決める」という方式がとられた(21年前)。
4) それが、「誰でも1年1ミリシーベルト以下なら安全としよう。本当のところはわからないが、それで行こう」である。
5) すでに20年以上、世界中でこの基準で生活し、特にヘンなことは起こっていないので、その意味でのデータは経験的にとられている。
(引用以下省略)

ちょっと引っかかる点がある。これまで、「1年1mSv」許容限度の原則の根拠として、武田は2つの点を強調していた。1−長い期間をかけて科学的に精査してきた結果の許容数値であること、2−国際機関が認定し堅持してきた許容数値であること(したがって、一国で勝手に変更できないこと)、の2点である。上記の引用は、単なる表現上の齟齬なのか、あるいは内容の変更を伴うものなのか、気になる。


追加 3 (6月24日)
何度も述べているように、かねがね武田は、「1年1mSv」許容限度の根拠として、2つの点を強調していた。つまり、(1)−科学的に時間をかけて精査した数値であること、(2)−国際的に認定された数値であること、これである。同氏にあってちょっとブレが生じている印象を受けたのは、1番目の根拠であったが、最近は元に戻っている印象を受ける。最近の記事のうち、「国立ガンセンターなのにガンを増やすのに一生懸命!?」 (2011年6月23日 午後4時 執筆)を参照ください。



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