「核」の現実 (3)   武田邦彦の「二つの日本」


「核」の現実、を前に進めなければならないのだが、またまた横道にそれることになる。理由は、武田邦彦の最近の言説、というよりはそのブログのタイトルが、「おお…」と僕を驚かせるからだ。よって、どうしても取上げなければ、となってしまう。

今回の記事は、
科学者の日記110609 日本を二つに分けたらどうか? (2011年6月10日 午後3時)
である。

僕も、3.11以降、疎開しながら日本のいろいろなところを移動し旅行した。そして、それぞれの土地の人と接しているうちに、明らかに、わが国には二つの日本があることを実感したし、分かれたほうがいいと考えるようになった。実は、僕の場合、大震災と原発事故が起こったこととは無関係に、前々からそういう考えであったのであるが。武田邦彦天木直人の「もう一つの日本」提言、そして僕も、二つの日本という点で同じ方向を目指しているようだ.もちろん、三者三様で、実は中身が大きく異なっているのだと思うが、その点をこれから、順次詰めて明らかにしていきたいと考えている。

ますは、武田邦彦の「二つの日本」についてである。彼のこの記事は、提言ではなく、日本の現実が二極分解していることを告発しようとするものだ。まず「国」を、秩序があること、安定した共同意識を支配者を含めて人民が遍く持っていることなど、を要件とした一定のテリトリーをさすと考える。その尺度に照らして、日本と中国を評価する。すると、日本には古来から「国」が存在した、しかし中国には「国」は存在してこなかった。したがって、中国で人民が生きていくためには「国」とは別の価値観を必要としてきたのだ、という。ちょっと紋切り型の日本−中国観であるが、大きくは外れていないと思う。その上で、次のように述べている。

中国人は「国」に住んだことが無いので、もちろん「国」を信用していない.むしろ、国の指導者は自分たちの儲けのためにウソをつくということを前提にしてニュースを聞く. 中国人は、「ウソをつき、お金がすべて、誰も信用しない」と言われる。日本人から見ると「汚い」と思いがちであるが、国が無ければベストの生活の仕方だろう。
日本も、
1) 誠実で、お金は2の次、愛する家族、信頼できる友、誠実な社会、誇りの持てる日本、
2) ウソをつき、お金が全て、誰も信用出来ないという日本、政府が無いようなものだから考え方に
よっては気軽。
の2つに別れたようだ。
東電、保安院、菅政権、東大教授、放射線医師などは中国式の国を尊敬しているようなので、中国風の日本、2)に行ってもらい、私は伝統的な日本、1)に入りたい。
原発事故が起こってから、良く「何を信じたらよいか判らない」と言う人がいる。中国風日本で何かを信じようとすること自体が無理である. 信じて生きたい人は1)に、誰も信じることができず自分で判断したい人は2)に移動すると迷いも無くなるだろう.

告発は、さらに続く。

1990年頃、バブルが崩壊したが、それは経済的なことで、もっと深刻な日本社会の崩壊が起こっていた。
それからというもの、国債の異常な発行、年金の不正処理、ゆとりの教育の欺瞞、リサイクルとダイオキシン騒動、温暖化詐欺、一年交替の首相など、これまでの日本にはあり得なかったことが続いた。
日本では「子供は宝」だったが、1990年からは「子供は金儲けのダシ」になり、今回も子供にもっと厳しい1年20ミリの被曝を課した。
日本は信頼できる政府の崩壊と共に、日本人の中国人化が進んでいる.

この記事が、現代日本の健全さとその病理の両面を抉り出している限りで、ほとんど異論はない。さらに言えば、僕に欠けていた物差しを提示されたような気がして、有益でさえある。しかし、では今後どうすればいいか、という視点は十分でなく、まだ提言にはなっていないのが残念だ。まさか、国民全ての思想テストを実行して二つの人種を分別し、人口移動を行った上で、二つの国を立ち上げるという訳には行くまい。かつて、イギリス植民地からインド・パキスタンが分離独立した時に、似たような事態が進行したのだが、それ自体が悲惨な現実であったことは確かだ。

だが考えて見よう、彼は原子力科学者だ。その彼が、原発事故の現実に深くコミットしようとすると、上記のような「二つの日本」を告発せざるを得ないという事実に、驚きを禁じえないのだ。それは、その役割を果たすべき者が果たしていないということでもある。

自分の考えを提示しないで論評するのは、ずるいと受け取られるだろう。それは仕方が無いことだ。いずれ僕の考えもまとめて書くつもりだ。その前に、次は、天木直人の「もう一つの日本」を取上げたい。



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