ある米軍通訳士官の終戦の「物語」


日本では、8月になると、世間的に「終戦」(敗戦のこと)の記憶が毎年のように回想される。しかし、日本の国民の多くが、本当に回想しているのだろうか? 

戦争の本当の記憶は、語り継がれてきていない。人間個々人の経験 -それが歴史と呼ばれるものであろうが- は、それぞれの家庭、あるいは地域で、「物語」として倫理的教訓を伴って語り継がれるものであろう。しかし、日本の現状は、だれが意図したかは一概に即断できないが、家庭の躾け、地域の結びつきなどは、自主的にか謀略的にか壊されてきているし、もはやこのままでは修復不可能な段階に至っている(もちろん、いずれの日にか修復されなければならないし、確実に、突然に回復されるはずだ)。

国家レベルの話で、いくら「終戦記念日」の式典を毎年行おうが、既成体制の護持システムの一部にすぎないマスコミが毎年のように「8月ジャーナリズム」を演じてみようが、国民はどう反応すればいいのか解らないし、関心がもとより湧いてこない。マスコミ自身も、この事態に嘆いて見せる、戦争体験が「風化」してしまったと。建設的な方針を何一つ、マスコミとして提示してこなかったにもかかわらず、である。

私自身、戦争に関する「物語」を親から、あるいは地域の大人からを聞いてきただろうか? 地域の大人は、二三の例外を除いて、基本的に黙して語らなかった。しかし、彼らのその荒んだ生きざまを見るにつけ、戦場体験のなんたるかを私は感じ取ることができていたと思う。

親からは確かに何度も聞かされた。ただし、その「物語」は、宮崎駿が親から聞いた「物語」とも違うし、戦時中の武勇伝、あるいは空襲の恐怖の体験とも異なる。実は、私の父親は戦場に行っていなし、空襲を直に体験していないのだ。それゆえに、「物語」の多くは、戦中・戦後の生活苦によって占められている。私が聞いた「物語」の詳細は、別の機会に譲り、今は省略しよう。

以下に引用する文章は、戦争中、「米海軍通訳士官」であった人物の終戦の「物語」である。その人物とは、ドナルド・キーン氏であり、本ブログでもしばしば引用してきた。彼は、戦争中は戦勝国になるはずの米国側の人物であった。その点で、日本人が語るものとは角度が異っていて興味深い。彼の「物語」の中には、どんな「倫理的教訓」があるのだろうか? それを読み取るのも、興味深い。


夏の記憶 原爆、消えぬ「なぜ」

ドナルド・キーン


広島と長崎に原爆が落とされ、玉音放送が流されたのは八月。日本では新聞やテレビがこぞって、第二次世界大戦を特集する。「八月ジャーナリズム」と聞いたことがある。「ジージー」、「ミーン、ミーン」とせみ時雨が暑苦しいこの季節には、私も「ある事件」を思い出す。

1945年7月。米海軍の通訳士官だった私は、沖縄上陸作戦中に投降してきた日本兵ら約千人の捕虜を連れて航空母艦でハワイへ向かうよう命じられた。途中に寄港したサイパン島で事件はあった。将校クラブで、近くのテニアン島から来ていた飛行士が酔って、大声でしゃべっていた。「戦争はあと一カ月で終わる。賭けないか」と。

飛行士たちは、概してお高くとまっていて誇張癖もあり、私は信用しなかった。それに、日本軍は「本土決戦」とまくし立てていた。物資面で米軍が圧倒的であった沖縄地上作戦でさえ四カ月はかかった。これから九州上陸か…と、うんざりしながらも多くの米兵は「戦争はまだ続く」と思っていた。だれも飛行士を相手にしなかった。だが、飛行士は知っていたのだ。ニューメキシコ州ロスアラモスの研究所で開発された原爆がテニアン島に届き、B29爆撃機エノラ・ゲイ」が投下準備をしていたという最高機密を。

私は8月第一週にハワイに到着した。その夜、奇妙な夢を見た。新聞売りの少年が、「号外、号外」と叫んでいた。何とはなく「虫の知らせ」を感じてラジオをつけると「広島に原爆投下」と報じていた。日本人捕虜の収容所に行くと、広島が壊滅的打撃を受けたことは知らされていて「よかった。これで戦争が終わる」と言う捕虜もいた。

その午後、真珠湾にある司令部に帰還の報告に行った。司令官は私に「貴官は海外勤務を十分に果たした。帰郷休暇をとる資格がある」と言った。ただ、「終戦は近い」という認識があったのだろう、「日本に行く気はないか」と付け加えた。私は即座に日本行に同意した。

私は、軍用機で西に向かい、グアム島で待機することになった。そこで、今度は長崎への原爆投下を知った。まとわり付く熱気と湿気に汗を滴らせながらラジオを聴いたが、ショックだったことがあった。トルーマン大統領が「jubilantly(嬉々として)」発表した、というくだりだ。

広島にしても、長崎にしても、十万人を超える多くの市民が、熱風と爆風、そして放射能の犠牲となった。その時の被爆で、68年たった今でも苦しんでいる人たちがいる。当時、原爆被害の実態は分かっていなかったが、それにしてもその威力は絶大で終戦は時間の問題だった。なぜ、原爆を二度も投下する必要があったのか、正当化できる理由は何も考えられず、私は深く思い悩んだ。

その6日後だった。ひどい雑音に混じってラジオから流れてくる玉音放送を聞いた。文語調の言葉で私には内容がよく分からなかったが、一緒にいた日本人捕虜は涙を流していた。
(日本文学研究者)

ドナルド・キーンの東京下町日記」 「東京新聞」2013年8月3日より






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