福島被曝者に「被曝者手帳」を!(3)

ABCC 「原爆被害を秘密調査すれど、治療せず」


広島・長崎への米軍に拠る原爆投下から、数カ月後、連合軍は即座に両爆心地で放射能被曝がもたらす結果を実地で調査し始めた。その代表機関が、ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission)で、日本語では「原爆傷害調査委員会」という。

原子力災害に関して、その甚大な結果を秘密にし、「事態」を小さく見せようとする権力者の挙動は、別にフクイチ事故だけではない。広島・長崎の原爆投下の惨状も暴力的に隠された。調査はされるが、その調査結果は「日本人には」秘密にされたのだった。

ABCCの実態とその存在経過は、今となっては、素人の私が聞き取り調査をすることは不可能だし、そのすべもない。ここでは、インターネット上の記事から、原水爆禁止日本協議会代表理事である沢田昭二氏(元名古屋大学素粒子物理学教授)の『反核ゼミ』の記事を部分的に引用させてもらおう。

反核ゼミ』 26/27 原爆被害の隠ぺい(その1)(その2)

日本軍の原爆災害調査
 アメリカ大統領トルーマンの「原爆投下声明」を傍受した日本軍と日本政府は、広島に投下されたのが原爆であることを確認するため理化学研究所の物理学者仁科芳雄博士を含む調査団を広島に派遣しました。また、陸軍と海軍は、各地の大学から物理学者や医学者など専門家調査団を派遣し、調査にあたらせました。この調査結果に基づいて、日本政府は、アメリカに対して、原爆投下は国際法に反すると抗議しました。その一方で、国民には、戦意喪失をおそれ、原爆を「新型爆弾」と称して原爆被害の深刻さを知らせない方針をとりました。(……)

深刻な放射線被害の報道
 9月2日、ミズリー号艦上で日本の降伏文書調印が行われ日本占領が始まりました。外国人従軍記者団も来日し、広島を取材しました。9月3日に広島を取材したウィルフレッド・バーチェット記者の配信記事は5日のロンドン『デイリー・エクスプレス』に掲載されました。「原爆の災疫?私は、世界への警告として、これを書く?医師たちは働きながら倒れる 毒ガスの恐怖??全員マスクをかぶる」と題した記事には「最初の原爆が都市を破壊し、世界を驚かせた30日後も、広島では人々が、あのような惨禍によって怪我を受けなかった人々でも、『原爆病』としか言いようのない未知の理由によって、いまだに不可解かつ悲惨にも亡くなり続けている」と書かれていました。これは放射線被害の影響が30日後も続いており、さらに残留放射能の存在も示していました。バーチェットとともに広島を取材したウィリアムス・H・ローレンスも5日付『ニューヨーク・タイムズ』に「原爆によって4平方マイルは見る影もなく破壊しつくされていた。人々は1日に100人の割合で死んでいると報告されている」という記事を書きました。このような原爆投下の悲惨な状況が世界に伝わると大きな反響が広がり始めました。

放射線被害を全面否定したファーレル声明
こうした報道をおそれたのは、マンハッタン管区調査団の指揮官トーマス・ファーレル准将でした。彼は、原爆製造のマンハッタン計画の中で放射線の人体影響の研究を担当しており、わずかな放射性微粒子の肺への蓄積も致命的な影響があることを承知していました。そのファーレルは、9月6日東京で記者会見を行い「広島・長崎では、死ぬべき者は死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能で苦しんでいる者は皆無だ」という声明を発表しました。バーチェット記者が、広島の現状とまったく違うと反論するとファーレルは「残留放射能の危険を取り除くために、相当の高度で爆発させたため、広島には原爆放射能が存在し得ず、もし、いま現に亡くなっている者があるとすれば、それは残留放射能によるものではなく、原爆投下時に受けた被害のため以外あり得ない」と事実を否定する回答をしました。原爆の爆発高度はもっとも効果的に都市を破壊できる高度として選択されたものでした。

放射線被害の情報収集と隠ぺい政策のはじまり
 日本がポツダム宣言の条件的受諾を申し入れた8月11日には、マンハッタン計画の責任者のグローブス将軍はファーレル准将らに原爆効果調査団の結成を命じていました。調査団の目的は(1)占領軍に放射能の危険が及ばないことの確認と(2)建造物と医療面への爆撃の効果の情報獲得でした。調査団は9月8日広島に入り、9月17日から10月6日まで長崎の調査に当たりました。
 アメリカ軍を中心とする占領政策が本格的に始動すると、連合国最高司令官総司令部(GHQ)は、日本政府にマンハッタン管区調査団の調査に協力を指令し、占領以前に行われた原爆被害調査資料の提出を命じました。他方、GHQは原爆使用の非人道性を国際的に知られることをおそれ、1945年9月19日、原爆に関する報道・文学は検閲により厳しく制限し、被爆調査に関する発表も事前に許可をとることを要求し、事実上発表を禁止するプレスコードを引きました。このプレスコードは占領が終わる1952年まで続きました。こうして、今日の原爆症認定を求める集団訴訟にも関わる放射線被害隠ぺい、とくに残留放射能内部被曝の問題を隠ぺいするアメリカの政策がスタートしたのです。

隠ぺい政策の下で情報収集
 1945年9月、連合国最高司令官総司令部(GHQ)は原爆被害の報道を禁止すると同時に、原爆の影響を調査し、放射線被害の情報収集を始めました。
 その頃、日本の科学者や医学者を網羅する日本学術研究会議によって「原子爆弾災害調査研究特別委員会」が立ち上げられ、原爆被害の調査を行っていましたが、調査結果はすべてアメリカ側に提出させられました。
 この特別委員会の調査活動の一環として日本映画社が被爆実態を客観的に科学的に記録するための撮影を開始しました。GHQはこの撮影を中止させ、替わってアメリ戦略爆撃調査団の監督下において撮影の再開を命じました。翌1946年に原爆被害を記録した映画の英語版が完成すると、写真、フイルムすべてをアメリカに持ち去ってしまいました。この貴重な映像資料がアメリカから返還されたのは21年後の1967年でした。
 アメリカ陸海軍の軍医団は、東京帝大医学部に協力させて、名ばかりの「日米合同調査団」をつくり、1945年9月から約1年間の被爆調査を行いました。この収集資料の解析には日本の研究者の参加は認められず、調査資料すべて米国に送られ、米国陸軍病理学研究所に保管されてしまいました。

原爆傷害調査委員会(ABCC)の設置
 1946年、核兵器によって世界支配をする政策を明確にしたアメリカは、核兵器使用による人体への影響、とくに放射線の攻撃的な側面と、防御的な側面の両方から研究する必要に迫られていました。
 1946年11月26日トルーマン大統領は、全米科学アカデミー原子爆弾傷害に関する委員会の設置を指令し、この委員会は広島と長崎に原爆傷害調査委員会(ABCC)の設置を決めました。
 日本政府は1947年5月、ABCCへの協力体制を整えるために、東京帝国大学伝染病研究所から分離独立させた予防衛生研究所を厚生省に設置しました。1948年広島市の宇品にABCC仮事務所が開設され、予防衛生研究所広島支所長がABCC副所長を兼任する体制がとられました。さらに、1950年の国勢調査に付随して被爆者調査を行い、ABCCが被爆者調査の対象者集団を設定するためのリストを提供しました。こうして、日本政府は、軍事目的のABCCの調査には協力しましたが、原爆被害で苦しんでいる被爆者を救援する手だてはとりませんでした。また、独自に原爆被害を明らかにするような、ABCCに相当する研究体制をつくることもしませんでした。

占領軍の特権で強制的調査
 ABCCは予備的な準備調査を経て1950年に広島と長崎に恒久的な施設を建設し、臨床部、臨床検査部、放射線部、病理部、統計部、医科社会学部を設けて被爆者調査を開始しました。ABCCは占領軍の特権を背後に、被爆者調査に当たり、「血は取られるが治療はしてくれない」と被爆者に恐れられていました。被爆者が死ぬと遺体は無理矢理に取りあげて、解剖し、標本にして米本国に送りました。
 ABCCの占領機関的閉鎖性、米側専門職員の頻繁な交替、広島・長崎両市の市民感情などで、1955年頃には、調査活動は全体として停滞気味になりました。米国学士院はABCC調査団を送り、その小委員会のフランシス委員会の勧告に沿って1958年に2万人を対象とする成人健康調査、1959年に10万人を対象とする寿命調査(LSS=Life Span Study)が再発足し、この調査・研究は今日まで引き継がれています。

ABCCを引継いだ放影研
 1956年、原水爆禁止運動の高まりの中で被爆者の全国組織、日本原水爆被害者団体協議会日本被団協)が生まれました。被爆者運動が発展する中で、占領体制の中で生まれたABCCは、占領が終わってもその体質は変わらず、被爆者の治療や救援には役立たないことが広く認識されるようになってきました。1967年の第13回原水爆禁止世界大会では、ABCCの撤去と資料の全面公開を求める決議が採択されました。
 こうした状況の中で、1975年ABCCは閉鎖されて、日米共同運営の放射線影響研究所放影研、RERF)が開設されました。これによって、ABCC・予防衛生研究所という占領体制の中で生まれた体質の解消が期待されました。しかし、ABCCの職員・施設をそっくりそのまま引き継いだために、放影研ではABCCの研究・調査の事業目的はそのまま温存されています。
被爆者を調査対象にした放射線影響の研究は、核兵器によって被爆者をつくり出さない立場に立つものでなければなりません。しかし、放影研の研究・調査事業は今日でもアメリカのエネルギー省の下に置かれたブルー・リボン委員会の方針に沿って立案されています。そのエネルギー省は、現在のブッシュ政権の下で引き続き「使いやすい核兵器」を研究・開発・製造を進めている総元締めなのです。

原爆被爆集団訴訟
現在、全国の11カ所の地方裁判所で143人の被爆者が、厚生労働省を相手取って原爆症の認定を求める裁判を起こしています。厚生省の認定基準の基礎には、放影研の成人健康調査や寿命調査が基礎になっています。これまで述べてきたように、放影研の調査では、ABCCの軍事目的の流れから転換できないまま、初期放射線による瞬間的な強い放射線の影響の調査だけに重点を置き、原爆の放射性降下物や残留放射能による慢性的な被曝、とくに内部被曝の影響を無視ないし軽視しています。これが、現在、被爆者が原爆症で苦しんでいる実態からほど遠い研究結果を導くことにつながっています。集団訴訟の中で、このような問題の解明が求められています。

http://www.antiatom.org/GSKY/jp/Rcrd/Basics/jsawa-26.htm




澤田昭二氏のより専門的に核の重大性を訴える論文に、以下のものがある。
Articule: “Cover-up of Injuries from Atomic Bombing and Severe Effects of Internal Exposure to Residual Radiation” Shoji Sawada



また、ABCCを知るための視覚的資料として、以下のビデオが有益である。ABCCを知るための
Daily Motion video
[2012.07.28 知られざる放射線研究機関 ABCC/放影研 ]
http://www.dailymotion.com/video/xsgr38_20120728-%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%96%E3%82%8B%E6%94%BE%E5%B0%84%E7%B7%9A%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%A9%9F%E9%96%A2-%EF%BD%81%EF%BD%82%EF%BD%83%EF%BD%83-%E6%94%BE%E5%BD%B1%E7%A0%94_news


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