戦争をどう語り継ぐか


日本の8月は、決まったように戦争を想起させる月になっている。様々な行事が行われる上、お盆時期の休日はそれと関連した休日の過ごし方をする人が多くいるようだ。これはもう、宗教行事のようなものになっているのではないか。つまり、8月は日本にとって、「ラマダン月」なのではないか。これはとても重要なことだと思う。近現代史の節目の事件が人々の生活カレンダーに盛り込まれているといえるのではないか。

私は、8月をほとんど海外に居ることが多いんのだが、去年と今年は8月半ばになっても日本にいる。だから、どうしてもこの月は戦争のことを書きたくなってくるのだ。昨年は、敬愛するドナルド・キーンの紙上エッセイ(東京新聞)を引用し、論評した。それは、以下のものだった。
「ある米軍通訳士官の終戦の「物語」」(http://d.hatena.ne.jp/kobayaciy/20130804/1375580005

今年も、同じ東京新聞の紙面から、映画監督池谷薫氏からの聞き取り記事を引用してみたい。その記事は、8月16日朝刊紙面で、「考える広場」 -戦争をどう語り継ぐか- に載ったものである。

戦場体験リアルに

映画監督池谷薫さん

海軍の技術将校だったぼくのおやじは広島で被曝しました。ぼくがそのことを知ったのは大学受験を着替えた18の時です。「なんでそんな大事なこと言ってくれなかったのか」と、もすごく怒りました。

だから戦争世代に対しては「ご苦労さまでした」だけではなく、「もっと<体験を>語れ」というのがある。語る責任があるだろうと。あれだけの戦争で、あれだけの負けを喫したわけだから、戦争責任がどこにあったのか明らかにしなきゃいけない。彼らも戦争に加担したわけですからね。

2006年に「蟻の兵隊」というドキュメンタリー映画を発表しました。中国山西省終戦を迎えた日本軍の将兵2600人が、現地の軍閥の舞台に編入され、不条理にも3年余り中国人同士の戦いに巻き込まれたという話を知り、元将兵たちを取材しました。

映画を何としても撮りたいと思ったのは、主人公である元残留兵の奥村和一産が自分の戦争に決着をつけようちしていたからです。彼は初年兵脅威チュで中国人を銃剣で刺殺した経験がある。残留問題に関しては被害者だが、戦争に向きあえば向き合うほど、自分が加害者でもあるという事実から逃れようがない。そんな居心地の悪さを感じていたのです。

残酷だと思いましたが、奥村さんを中国人刺殺の現場に連れて行きました。一緒に現場を訪ねた時、「おまえだったらどうした」と問われている気がしたものです。確実にぼくもやったはずつ思いました。その時、僕の中で少しだけ戦争が近づいた気持ちになりました。

戦争は、もし自分がそこに行かされたらという気持ちにならない限り、人ごとでしかなく、風化していくでしょう。オクムラさんの手の中には、銃剣がすっと相手の心臓に入っていった感触が残っているのです。そういう戦争の手触りを伝えていかないとだめだと思います。

撮影したのは今から9年前ですが、当時、元将兵たちはものすごい危機感をもっていました。「今はあの頃と一緒だ。戦前の雰囲気と全く変わらない」と。今だったら「もう戦中だ」と言うんだないですか。戦争って何だったんですか、どんなことが起きるんですかと。今ならきっと言ってくれますよ。遺言として。
(聞き手・大森雅弥)

あとがきコメント:

戦争とはなにかについて、私なりに暫定的なまとめをしておきたい。私も池谷氏と同様戦後派であるが、池谷氏とは、感じ方が違っている。彼はどちらかと言えば、「戦無派」と呼ばれるにふさわしい。なぜ其の違いが出るのかといえば、幼年時代の経験と教育・語り伝えの違いだと思う。
私の経験を言えば、もちろん爆撃を受けて逃げまどう経験もなければ、敵を刺殺する経験もない。しかし、敗戦国日本の状況は感じとれていた。幼児の頃私は、山口市で育った。そこには、連合軍の進駐軍がいた(1953年頃まで)。米軍の黒人兵もいたし、中でも、質の悪い白人兵はオーストラリア兵だった。進駐軍兵に石をぶっつけて、家に逃げ込んだ記憶がある。また、大陸、特に満州からの引揚者にも接した。彼らは、どちらかと言えば三々五々日本に帰ってきたようだ、遅れた引揚者もかなりいたようだった。強く印象に残っているのは、そういう引揚者の家族のうち、行くあてのないものが、橋の下で暮らしていた風景である。
これら橋の下の住人が、なぜ印象に残ったかというと、戦後の荒廃した家族事情からかけ離れて、彼らは、古き良き家族秩序を持ち続けていたように思えたからである。それは幻のような光景だった。食事時、父親が、乏しい食い物を、自らの前に子供一人づつ呼び、分け与える。子供はお辞儀をしてそれを受け、父の前で食す。子供の数だけこの光景が繰り返される。最後の席に、妻と覚しき女がつく。遠目からであったとはいえ、私は、そこを動くことができずに、その様を見入っていた。
池谷氏は、私よりはるかに戦争・敗戦の経験が乏しいのではないか。したがって、「戦争」の実感がほしいのだと思う。それは当然のことであろう。しかし、元兵士に「戦争」を語れという要求はちょっとおかしい。問い詰める方向が違っている。問い詰めるべきは、「戦争」の現実を封印して、戦争の被害者・加害者などという意味不明な概念を振り回した戦後日本の政治社会、それを加速させた戦後教育のはずだ。

ここで私なりの戦争観を箇条書きにすると以下のようだ。
■ 戦争は、敵を殺すことを「正義」(別の言い方をすれば「手柄」)とする行為である。したがって、加害者でもあり、当人が戦死すれば被害者にもなる。つまり、戦争に加害者・被害者の視点を持ち込むことは、もとよりなじまない。また、戦争に異常・正常などという見方を持ち込むことも当を得ていない。歴史上、身近な戦争は異常だが、鎌倉時代や戦国時代の戦争は正常だったというのだろうか。これこそをイマジネーションの欠如だろう。

■ 第二次大戦から起こった住民の「大量殺戮」は、戦争行為とは分けて考えるべきだ。南京虐殺が大量殺戮であったかどうか、いずれ歴史が証明するであろう。大量虐殺は、ナチスによるユダヤ人収容所での虐殺、原爆による広島・長崎の焼尽行為、さらに「焼夷弾」(napalm bomb)による日本の都市住民、ベトナム住民の焼尽行為を挙げるべきだし、これらを指弾すべきだ。

■ 国、またはふるさとを守るために戦って戦死した軍人、傷痍軍人へ思いを致すこと、何はなくとも彼らに手を差し伸べ援助すること、彼らに後世の国民として感謝すること、これらは当然のことである。そこに何も恥じる要素は介在しない。しかし、戦死者を「英霊」とまつりあげることには、同意できない。まず、この英霊という言葉を使い続けることが良くない。これは旧日本軍の考えだした言葉がだ、それは手垢がつきすぎている。また、敗戦後もこれを使い続けたい集団がいるが、それは、戦闘行為を侵略とか悪の加害行為とみなす集団の「裏側」になってしまっている。

■ ここまでは、内向きの見方であるが、外に向かって取るべき日本の態度が、将来的に重要になることは、言をまたない。この点は、別の機会に譲る。(紺屋)







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