福島被曝者に「被曝者手帳」を!(7)

「被団協」の結成と「原子力の平和利用」



■ 被爆者遺棄の12年
広島・長崎の被爆者が「被団協」を結成して、政治的な声を上げ始めたことを、このシリーズで見てきた。そこに至る道程は筆舌で語り尽くせない悲惨かつ苦難の道であった。原爆投下を命じた米国政府は、その原爆使用の動機とそれがもたらす影響の隠ぺいと捏造に腐心したと思われる。占領地日本において、GHQに命じて徹底した事実の隠ぺいと捏造を行った。その任を担って来日したのが、マンハッタン計画の副責任者であったT.F.ファーレル准将である。同准将とビルフレッド・バーチェット記者との角逐もすでに見た。(http://d.hatena.ne.jp/kobayaciy/20140531/1401534050)

GHQ被爆地の住民に対する態度は、過酷なものであった。原爆使用を正当化すると同時に、放射能被曝の影響は一切認めない態度であった。赤十字国際委員会駐日代表のM.ジュノー医師らは、被爆地の惨状を見て、医薬品(特に化膿止めのペニシリン)と医療資材の国際援助を計画実行したが、GHQによってことごとく妨害されたのである。報道は、プレス・コードなるもので完全な言論統制下に置かれ、「原爆」という単語の使用すら禁止されたほどであった。

日本政府の被爆者に対する態度はどうであったかというと、これがともに戦争を戦って傷ついた同国人に対する仕打ちか、と疑えるほどひどいものであった。戦後の混乱と占領下にある事態を差し引いても、被爆者救済のために日本政府が行えることはいくらでもあったにもかかわらず、その責任を全くはたしていなかった。明治憲法には戦時災害保護法があり、広島・長崎でも当初(8月)これが不十分ではあるが、適用され始めていた。しかし、あろうことか、日本政府は同法の適用を、1945年10月8日に打ち切ったのである。もちろん、GHQのファーレル准将の命令であったことは推察できるが、日本政府は何の抵抗も代替手段の講じなかったのである。

この時以来、被爆者は、12年の長きにわたって、完全に政府の行政から見放されることになったのである。12年というのは、1945年10月から、被爆者の運動によって勝ち取られた「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」の成立である1957年 3月までの期間を指す。このGHQと日本政府の被爆者に対する対応は、一言でいえば被爆者の「隠ぺいと遺棄」であった。一定の医療施策が始まるまでの12年間被爆者の置かれた在り様を、原爆症認定集団訴訟(2003年開始))での「訴状」は以下のように伝えている。

このような原爆被害の隠ぺいと被害者の遺棄・放置は、ビキニ水爆実験で第五福竜丸が被曝したことを契機に原水爆禁止運動が大きく展開し、「原爆医療法」が制定されるにいたる1957年まで実に12年つづくことになる。
このことにより、例えば、被爆者がいわゆる「原爆ぶらぶら病」といわれる肉体的・精神的疾患に苦しんでいても、周囲の日本国民自身がその苦しみが原爆被害によるものであることを理解できなかった。いや、被爆者自身さえ、その苦しみが被爆によるものであることを理解できなかったのである。まして、強制連行されて広島・長崎で被爆をして、それぞれの国に帰国した被害者などは、周囲の理解をなおさら受けることができず、苦しんだのである。その結果、被害者の救済は大幅に遅れ、被害が拡大することとなった。

日本被団協50年史」本巻(2009. あけび書房)より



■ 「被団協」結成時の時代状況
原爆そのものの「隠ぺい」と被爆者の「遺棄」の末、被爆者が団結して立ち上がるきっかけを作ったのは、東京杉並の市民運動原水禁署名運動」に他ならなかった。その署名運動は世界へと広がる国際主義のエネルギーを宿していて、海外の反核運動と呼応していったのである。もちろん、これは周到な戦略の賜物であった。被爆者は、このエネルギーにのる形で、そして途中からその渦を指導する形で、同類を団結させ被爆の実情を世界に発信していったのであった。

その経過の概要はすでに見てきた。しかし、ここで一つ指摘しておきたいことがある。それは、被団協結成大会が挙行された1956年という年の時代状況とその中で政治的市民運動を組み立てようと企てた時の被爆者たちのスタンスというか、時代感覚の問題である。

1953年には、米ソの原水爆開発競争の世界戦略の一環として、米国内には「核の平和利用」ATOMS FOR PEASEを世界戦略にしようという動きが芽生えた。そして、新大統領のアイゼンハワーが、1953年12月8日原子力の平和利用に関する国連総会で“ATOMS FOR PEASE”の演説をおこなった。

演説_平和のための原子力(1953 年).pdf 直

これは、ソ連の核開発に対抗するため、いわゆる「自由主義陣営」で核技術を発展させ、核燃料のプルトニュームを自陣営内で共有しようとする意図をもって、原子力発電を促進していこうとするものであった。形式的には、ソ連圏の含めた全世界の核燃料の共有、その共同管理機構としてのIAEAの設立などが唱われているが、その意図を早くもソ連に見ぬかれ、フルシチョフの国連での反対演説を招いている。

もちろん、このような戦略意図は当初から一般に知られていたわけではない。アメリカの宣伝活動を甘く見てはいけない。圧倒的な破壊手段としての原水爆から、電気エネルギーを膨大に生み出し、明るい未来を約束する原発への核利用の決定的方向転換、こう唱われると抗うことはできないし、夢を託す「空気」が生まれるのは当然といえよう。しかし、米国が実行したのは、「キャスル作戦ブラボー」水爆実験であった。アイゼンハワーの国連演説から、3ヶ月もたっていない1954年3月1日、米国委任統治領になったマーシャル群島ビキニ環礁において実験はおこなわれた。これは、秘密作戦であったが、第五福竜丸の機転で、これが日本に帰還したことによって、米国の秘密作戦は世界に知れ渡ることになった。こうして、アメリカの「原子力の平和利用」の宣伝に暗雲が垂れこめたのであった。

被団協結成大会の宣言の中に、1953年12月から1956年8月までの時代状況の認識がはっきりと表現されている。それはつぎのくだりである。

…人類は私たちの犠牲と苦難をまたふたたび繰り返してはなりません。破壊と死滅の方向に行くおそれのある原子力を決定的に人類の幸福と繁栄との方向に向わせるということこそが、私たちの生きる限りの唯一の願いであります。
 それにもかかわらず世界の現状はかえって水爆競争時代に入ったかのごとく広島、長崎の原爆に千倍の威力をもつ水爆の実験さえ行われています。私たちが「止めてくれ」と血の叫びを挙げているにもかかわらず、水爆実験は冷然として行われつつあります。…


■ 筆者のコメント
筆者が言いたいことをここでまとめておこう。その後、世界中に伝播していった「原子力発電所」は、その極めつけは日本の「プルサーマル計画」なのだが、大戦中にアメリカで始まったマンハッタン計画の延長上に位置することが、明らかになってきている。それはもちろん、米国での秘密文書の開示とその検討、機密文書のインターネット上での暴露などから判断できる歴史の後追いによって明らかになったことである。

しかし、問題にしたいのは、原子力の専門家たちは、当初から、間違いなく、そのことに気付いていたはずである、ということだ。なぜ専門家は声を上げなかったのか? それを封じ込める機構があったからである。各国の、官製の原子力政策がそれであり、日本では特に「原子力村」と呼ばれる捉え所のない機構がその要にある。これらは、市民社会で統合を期するための一種の社会制度にすぎない。良心のある科学者であれば、原子力の利用の真実の有り様を事実に即して発言し、説明することができたはずである。いくらを社会制度からのペナルティを受けたからといっても、である。

つまり、原水爆も、原発も原理は同じであって、原理的には放射能被曝の問題は両者に共通していること、さらに原発そのものは核物質プルトニュームの生産が主眼であり、発電は排熱利用の副次的産物である、ということを説明できたはずだ。

一方、被団協は市民運動である。現実的な一つの方向性を同調者に示す必要がある。当時は、国際的な平和主義が旗印であった。それへと被爆者と杉並市民のエネルギーが収斂していったのであった。それは当然の成り行きであったに違いない。しかし、もし、ここに勇気を持って真実を語ることのできる科学者が、アドバイザーでいたならば、原水爆にも原発にも反対し、核利用そのものを極小化していく運動へ繋がっていったかもしれないのである。

市民運動は、エネルギーの結集に腐心する必要があるが、一歩引いて、運動方針の巨視的見直しを敢えてする余裕を常に失ってはならないのではないかと思う。






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