根腐れの深刻さとその撃退術 1

■ 自宅で草花や樹木を育てる人、もっと広範囲に野菜や果樹園をきりもりする人にとって、栽培植物の「根腐れ」は害虫被害に次いで大きな問題だ。その原因は、肥料のやり過ぎ、ベランダ菜園なんかだと水のやり過ぎなどが、普通考えられるが、適切に育てたつもりでも、根腐れをおこすことがある。多分、外来種の場合だと、日本の気候に適するかどうかといった環境要因が関係しているようで、その原因はなかんか発見しずらい。

私の東京暮らしは、ほとんど集合住宅の一区画暮らしが続いているので、植物はほとんどベランダで育てている。植物の栽培は、毎日その成長というか変化していく様を見ているだけでも、心が和む。近年は、ほとんど樹木の栽培に専念している、それも果樹性の樹木に偏ってきた。。数年前から、東京は多摩丘陵に引っ越しをしたので、都心では見かけなかった新種の害虫に今は手を焼いているが、「根腐れ」は、あまりまねいていない。だけど、「根腐れ」だけにはいつも注意を怠ってはいない。

根腐れ」の原因などといえば、植物栽培の話を始めたように聞こえるが、実は、これからちょっと考えたいのは、文化的「根腐れ」のことなのだ。我々各個人は、ローカルな特定の社会の中に産み落とされた存在であり、そのことに我々個人には選択の余地はない。しかし各自が自立していくとき、もし十分な知性が伴っているならば、各自の「根っこ」と常に向き合って格闘するはずだ。私は、福島県人そのものなのか、日本人なのか、東アジア人なのか、あるいは地球としての普遍的な人類なのか、などなど。

アイデンテティー探しという表現がある。つまり、各自の「根っこ」探しのことだ。しかし、「根っこ」の中身などそう簡単に見つけ出せるものではない。私たちは、植物に例えるなら、ローカルなどこかに着床して、そこに根を張る以外にないのであって、そこから地中深く根を張っていき、各自の「根っこ」を探していくのである。自立し成長していくに従って、樹体は大きくなっていく、強風や雷、害虫など地表部分の風圧は強まるばかりである。ここで、問題なのはやはり、「根腐れ」である。

■ アメリカ生まれの若き詩人アーサー・ビナードの文章に次のようなものがある。「根腐れ」に注意!という趣旨を彼一流のエスプリを効かせて語っている。ちょっと長いので、省略を交えながら、引用しよう。

「亜米利加ニモ負ケズーーNeither snow, nor rain, nor the U.S.A.」のあとがき

アメリカに生まれて英語の中で育ったぼくだが、日本にいると「ネイティブ」と呼ばれる。(中略)もう「ネイティブ」と呼ばれることに、一応は慣れてきたが、最初のころ、少々どきりとするものだった。なぜなら、米国において native といえばナバホ族の人々、スー族の人々、アパッチ族とズーニー族とオジブワ族のみなさんが当然、さきにあげられるべきだから。ぼくなんか、ヨーロッパから招かざる客として移民し「ネイティブ・アメリカン」の先住民を押しのけて「アメリカ人」になった連中の子孫だ。

自分の先祖たちの生活と、もともと北米大陸に住んでいた人々の生活を比べると、自然とのかかわり方ずいぶん違う。ネイティブ・アメリカンは環境問題を引き起こさない、水と森のサイクルとかみ合った暮らしをしてきた。地球がここまで壊されてしまった背景には、ネイティブでない文明が、支配的になった歴史の流れがある。

それにしても、人間は一人ひとり、地球のどこかに産み落とされる。 native と nature の語源はいっしょで、どちらもラテン語のnasci--(生まれる)からできている。生まれてきた本人は、その場所も状況も親の人種も、なにひとつ選べないけれど、生き方ならある程度、自分で決まられるはずだ。ぼくらみんなにのしかかっている重要課題だ。個人レベルでも、マクロ経済の次元でも。

(中略)

生まれが基準とされる「ネイティブ」よりも、ぼくは表記をちょっと変えて、むしろ「根っティブ」のほうが大事なポイントなんじゃないかと思う。そして日本の「根っティブ」に到達するために、母国のルーツを切り捨てる必要があるかというと、そんな単純な二者択一の問題ではないと考えている。排他的なアイデンティティーではなく、同時に「根っティブ・アメリカン」の自分も、末永く育て続けるつもりだ。

「青人草(あおひとぐさ)」という古い日本語に、初めて出会ったとき、ぼくは人間の姿にどこか似た植物のことなのかなと思った。でも、逆だった。この世の風に吹かれ、時には吹き飛ばされそうになりながらも根を張って暮らす庶民が、草に似ているところからできた表現だ。同義語に「民草(たみくさ)」もあって、どちらかといえば権力者側から見下ろす感じだが、庶民側にまわってみると「草の根」という言葉も使われ、英語の grassroots の訳語であっても、「青人草」と同じ土壌に根づいている。

二十一世紀の、ぼくらのような青人草にとって、いちばん怖いことは、根腐れだ。しっかりへばりついていないと、企業に国家にグローバリゼーションのペテンの嵐に、吹き飛ばされかねない。もちろん、そんな相手に負けるつもりはまったくないが。

十九世紀の「文明開化」というペテンの嵐を、だれよりも鋭く愉快に描いたのは河鍋暁斎だ。社会の裏を見通して、奥の奥まで題材をさぐり、おかしみの源まで、暁斎の絵は連れて行ってくれる。

(以下略)

Arthur Binard


奈良で呼ばれている青人草

さすが、アーサー・ビナード氏だ。かつて、私は、「地下水系」を題材にして、文化の越境性--これはgrobalizationと言い換えても良い--のダイナミズムよりも、ローカル文化を守りぬくことの重要性を述べてみたいと考えていた。しかしその原稿は途中まで書いて、今ほったらかしになっていが、その時考えていたことと、ビナード氏の考えが同じ方向を向かっていることに気付かされた。

改めて、そのことを展開していきたい。

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