shiri an pa kamui


はじめに
柳田国男、日本に学問的水準に耐えうる民俗学を打ち立てた稀有な人物である。彼の著書に著名な「遠野物語」がある。その初版(1910年)は限定出版であったが、それ以降、柳田自身の編集で版を何度も重ねて、彼の主著の一つになった。この書の第一行が、「この書を外国に在る人々に呈す」という言葉で始まる。きわてて印象的な書き出しである。
周知のように、これは岩手県遠野地方の口頭伝承を忠実に収集したものだが、その69話に「娘と馬の恋物語」が収録され、オシラサマ神の起源説が語られている。それ以降柳田はオシラサマに関心を寄せて、これをいろいろと探求しようとしていた。
以下に引用する文章は、梅原猛著「日本の深層」からである。柳田のオシラサマ探求を肯定的に評したうえで、梅原自身の縄文・蝦夷文化論を展開している箇所である。
introducción
El señor Kunio Yanagida (柳田国男) fue una persona japonés destacada quien en la primera parte del siglo anterior se esforzó a establecer aquí una ciencia de etnología que ganara el nivel internacional. Dentro de sus obras se encuentra "los Cuentos de Toono", la primera edición de la cual fue de la salida limitada, pero desde entonces el mismo fue publicado muchas veces revisándose por sí mismo, y por fin se ha hecho la mayor obra suya. Es muy impresionante que él escribiera la primera línea del libro así: "les publico el presente a los extranjero".
La obra es, como sabemos, una corrección de los cuentos orales que se contaban por la región de Toono del Departamento de Iwate, parte norte del Japón. El número 69 de los cuales se pone una romance entre una chica y un caballo y como su resultado se da el origen de Dios de O-shira-sama. A Yanagida luego le interesaba profundamente este Dios, y lo estudiaba mucho.
Abajo se ha extraído desde el libro "el Fondo del Japón" por Takeshi Umehara(梅原猛), un filósofo y etnólogo. La parte citada se encuentra donde lo valoriza a Yanagida de su estudio del Dios O-shira-sama, y consecutivamente desarrolla su opinión sobre la cultura originaria del Japón.

地にあるものたちへの共感

柳田(国男)はおしらさまからこけし、おひなさま、あるいは傀儡への展開をみごとに解明したが、おしらさまそのものがなんであるかを、明らかにすることはできなかった。

最初彼は、このような信仰がアイヌにあるのではないかと思って、金田一京助に聞いたところ、アイヌにシラッキカムイというのがあるということを聞いた。シラッキというのは、「番をする」ということで、シラッキカムイはアイヌの守り神である。それは多くは、キツネやフクロウのシャレコウベであった。アイヌは旅行のときにのそういうシャレコウベをもって歩く。もしもアイヌのシラッキカムイが其のようなものであるとすれば、それは、顔を描かれた木切れであるおしらさまとは、ずいぶんちがう。おしらさまとシラッキカムイとは結びつかない。

おそらくそのせいであろう。柳田国男は、おしらさまが蝦夷すなわちアイヌと関係があるという説を捨てる。オシラサマはまったくわが国独自のものであり、たとえそれが偶然蝦夷の地に、すなわち津軽を中心とする東北地方に盛んであったとしても、まったく蝦夷すなわちアイヌと関係のないもんだと、後年の柳田は考えたのである。 (注1)

しかしそれはちがっているのである。金田一の教え方がまずかったか、柳田の尋ね方が不十分かであったのである。おしらさまに、その名もその機能もまったくよく似たというよりは、全く同じであると思われる神が、実はアイヌに存在しているのである。それはシランパカムイというのである。

バチェラーの「アイヌ英和辞典」第四版で「シランパ」というところを引くと、「地上の木(複数) v.i. To be standing on the earth, as trees. (An old Word only found in stories and legenda). It seems to come from shiri “earth”, an “is” and pa a prural suffix」とある。つまりシランパとは、「木のように地上に立っていること。(物語や伝説にのみ発見される古い言葉である)というのである。そしてその意味として、バチェラーは、“shiri”すなわち「地」、“an”すなわち「在る」、それに“pa”複数を示す接辞パが加わった「地にあるものたち」という意味だというのである。

もちろん樹木も地にある。しかし人間も獣もすべてが、やはり「地にあるものたち」なのだろう。木はまさに、このような多くの「地にあるものたち」を代表するものなのである。私はこの世界観に感動をおぼえるのである。現在の地球物理学によれば、まず地球上に植物ができる。そしてその木が発散する酸素によって地球が囲まれ、そしてそこから動物が生まれるという。とすれば、植物は生命の母なのである。このことを予感しているかのように、アイヌ語では木のことを「シランパカムイ」といって、すべての地にあるものを代表させようとするのである。また同じ辞典で「シランパカムイ」のところを引くと、次のようにある。

「木の神・The name given to any tree regarded as one’sguardian deity and so sorshipped. Such a tree mey be taken as the hunter’s care taker. The place where such trees grow are held very sacred.」(人間の守護神としてみなされて崇拝される、すべての木に与えられる名前である。そういう神は、猟師のお守りと考えれれている。そしてその木が茂っている場所は、聖なる場所とされる)というのである。

シランパカムイはまさに木の神なのである。木の神であると同時に、それは地上にあるすべてのものを生きとし生けるものを代表する神なのであろう。

また、バチェラーと並んでアイヌ文化を深く愛し、アイヌの土地に住みアイヌ文化の研究に一生を捧げたニール・ゴルードン・マンロー(注2)は、このシランパカムイを「遠い神」、すなわち天上の神に対して、近くにいてもっとも頼りにできる神の第一等にあげえているのである。マンローはそれは、“vegetation”すなわち、「成長の神」であるという。そしてそのシランパカムイの魂は、人間に家や道具を提供する木の中に、特に樫の中に現存するというのである。そしてまた、それは穀物や草の中にも現存して、木を成長させ、穀物を実らせる力となるというのである。

ところがアイヌでは、動物はもちろん植物すらも人間と同じものなのである。動物も植物も、本来その魂は天の彼方のどこかにいて、そこでは人間と同じような生活をしているのである。たまたま彼らの魂は、このわれわれの住む地上にやってきた。そこで彼らは、仮に動物や植物の形をとっているにすぎない。これは驚くべき思想であるように思われる。パンティズムというよりは、パンヒューマニズムというべきかもしれない。とすれば植物は、仮に植物の姿をとった人間といえるかもしれないし、人間は、仮に人間の姿をとった植物といえるかもしれない。この考え方は、地にあるもの、すなわちすべての生きとし生けるものの一方に植物をおき、その一方に人間をおく考え方であるように思われる。そして、その原初は自らの祖でもある植物の生命力を崇拝し、そしてその力を借りようとするのである。

このように考えると、あの白木を削って顔を描く意味は明らかであろう。それはその本来の故郷においては、人間の姿をしている木の神を示したものである。そしてアイヌのイナウもまた、白木を削って顔を描く、つまり、イナウにイナウパロ(イナウの口),イナウシク(イナウの目)、イナウキサラ(イナウの耳)、イナウネトバ(イナウの体)、イナウケマ(イナウの足)があるという。思えばイナウは木でありながら、同時に人間であるのである。おしらさまもこのようなイナウと同じく、木でありながら人間であるという二重性をもっている。おしらさまは、あのすべての生命の基である「シランパカムイ」をあらわしたものであることは、ほぼまちがいのないように思われる。


東北の祀られていた「おしらさま」

アイヌのイナウ(シランパカムイ)

このように考えると、もはやイタコの口を通じて語られるシランパカムイの御託宣の意味は明らかであろう。十六日はおしらさまの縁日で、本当の祭りは三月十六日であるという。おそらく雪が溶けるころ、いっさいの樹木を成長させ穀物を実らせるシランパの神は、人間に託宣を与えるのであろう。「今年は小豆を蒔くがよい」、「今年は大豆を蒔くがよい」、「粟と稗はよく実るであろう」。

私にはどこかで、このおしらさまは焼畑農業と結びついているように思われる。焼畑農業は稲作農業のように規則的ではない。稲作農業より偶然性が左右する。何を蒔くか、かならずしも一定ではない。おそらく土地や天候によっていろいろ異なるのであろう。そういう御託宣を、シランパカムイはこの地の人たちにあたえるのであろう。

白木崇拝の意味

不思議なことに、アイヌ語では「シラ」は、「白い」という意味ではない。黒は「クンネ」であり「エンロク」というのは黒色を意味する。また赤は「フレ」であり、「フレ」は音韻的にも紅の「クレ」に通じると、私は思う。しかし白はアイヌ語で「レタル」であり、白ではない。古代日本語はウラル・アルタイ語系の発音の影響を受けて、Rが語頭にたつ言葉を発音することのできない時代があったらしい。アイヌ語でRの語頭に立つ言葉は日本語では、多くR音かN音かT音になっているが、もし古代人がR音が発音しにくかったとすれば、「レタル」という言葉は用いられなくなったのであろう。そのかわりに、おそらく「白木」をあらわす「シロ」というコアと場が、白い色をあらわす言葉となったのであろう。

そして、もしもこのように白木が霊のよりましであるとすれば、日本人の心に潜んでいる白木に対する崇拝の心も、またよく理解できるのである。(中略)日本人の感じる白は、死の入りであると同時に、神聖な色なのであり、それはまさに霊の色なのである。

そう考えると、私にとって謎であった縄文文化の謎も解けてくるような気がする。つまり縄文土器の文様は、白木を削って縄にして、その文様を土器の表面にすりつけるのである。それはシランパの神を土器に注入することであろう。そしてシランパの神の力によって、人間は悪魔から守られ、安全に生活することができる。植物が成長し、人間ばかりかあらゆる生きとし生けるものが繁栄する祈りが、そこにこめられているのであろう。

どうやら東北の地で祀られていたおしらさま、すなわちシランパの神は、まことに深い哲学的意味をもっているようである。

梅原猛「日本の深層—縄文・蝦夷文化を探る」1983年より)

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(注1)柳田国男オシラサマの扱い
柳田は、「遠野物語」第十四話で次のように記している。
「部落には必ず一戸の旧家ありて、オクナイサマという神を祀る。その家をば大同という。この神の像は桑の木を削りて顔を描き、四角なる布の真ん中に穴を明け、これを上より通して衣装とす。正月十五日には小字中の人々この家に集まり来たりてこれを祭る。またオシラサマという神あり。この神の像もまた同じようにして造り設け、これも正月の十五日に里人集まりてこれを祭る。(中略) オシラサマは双神なり。アイヌの中にもこの神あること『蝦夷風俗彙聞』に見ゆ。」
柳田は、曖昧であるが、やはり、オシラサマそのものがアイヌ-蝦夷を起源とする神であるとする考えを放棄しているように見える。

(注2) Neil Gordon Munro
エジンバラ大学で医学を学び、インド航路の船医として29歳で日本にやってきた。横浜で横浜ゼネラルホスピタルで医師として、その後軽井沢サナトリウムの院長として働く一方、考古学にも深い造詣があり、日本の旧石器時代の研究をつづけ、横浜三ツ沢の貝塚(横浜市神奈川区)の発掘などをしている。そのご、日本人女性と結婚し、1905年(明治38年)に日本に帰化した。1932年(昭和7年)北海道沙流郡平取町二風谷に住所を移し、医療活動に従事する傍らアイヌの人類研究、民族資料収集を行った。アイヌと親しくなった彼は、9年後、ここで亡くなる時に、コタンの人々と同様の葬式をしてくれるよう遺言した。マンローの人類学関連の蔵書は以前から親交があったフォスコ・マライーニに譲られ、アイヌ研究の遺稿はマライーニからロンドン大学へ送られ、人類学者のセリーグマンの手によって『AINU Past and Present』としてまとめられた。(Wikipediaより)
今は以下の形で出版されている。 ”Ainu Creed & Cult ”(Neil Gordon Munro, 2014, Routledge)paperback 232pp

注の注
欧米人のアイヌ研究の走りとしてはぜひ、Isabella L. Bird "Unbeaten Tracks in Japan" 1885 が参照されるべきだろう。彼女は旅行者であるが、その観察眼は素晴らしい。和訳本は2種類あり、現在入手可能である。
「日本奥地紀行」(平凡社ライブラリー、高梨健吉訳)
日本紀行-上・下」(講談社学術文庫、時岡敬子訳))


縄文中期の土器、新潟県長岡市県立博物館にて


バチェラー「アイヌ英和辞典」第四版 該当箇所

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