思考の脱植民地化

近年私が取り組んできていることは、ラテンアメリカで発信され始めた”Decolonización de los saberes ” ということなのだが、これが、地元でもなかなか理解されない。これはもちろん、中南米でのインデオ、北米に範囲を広げたとすると、アメリカンネイテイブに関係したローカル問題かというと、決してそうではない。

アーリア系西洋人が世界を植民地化し始めた16世紀以来の近代史、あるいは近代世界の深層を問い正そうとする思想なのである。『正す』とは、いかなる立場からそうするのか、ということになろうが、それはまだはっきりはしていないかもしれない。アメリカ大陸の先住民の権利において、アジア固有文化の誇りにおいて、日本文化の誇りにおいて、などなどいろいろ取り上げられ得る。つまり、西洋にたいする「人間として」の普遍性と対置できるかどうか、すべきかどうか、まだ決着を見てはいない。

この主張を日本語で表現すると「思考の脱植民地化』と表現できるだろう。このままでは、なかなかその真髄が理解されないだろう。それは、『脱植民地化』は先住民による告発という意味を必ず背後に持っているからであり、日本にとって『先住民』の問題は存在しないか、解決済みだと多くの知識人が考えているからである。

かつて、西欧の中から 芸術のdecolonizaciónの動きがあった。ピカソを中心とした前衛芸術運動が、それである。西欧絵画の「脱植民地主義」といったも良い。しかし、西欧社会から本当の意味での植民地主義自己批判は、今日に至るまで登場してこなかった。ハンナ・アーレントなどの西欧社会批判が戦後登場したが、それはファシズム批判であって、西欧そのものがその根を下ろしている植民地主義そのものの批判では決してないのである。

さて、話を日本に戻すと、日本社会は決して単一民族の社会なのではない。日本社会の中に先住民を見つけ出し、その復権を目論むことは、一見アナクロニズムのように見えて決してそうではない。複合文化である「日本」への本当の回帰のためにも、極めて重要な事であると思われる。日本における、「思考の脱植民地化』の第一歩はここから始まるのだと思う。

以下の青山繁晴氏の「日本人逆差別が生まれる背景」のコメントは、日本における「思考の脱植民地化』の一端を担っていると思われる。


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