ジョン・バチェラーの「アイヌ・英・和辞典」

■■ついに購入
前々から欲しかったが、ちょっと高価で手が出せなかった本に、アイヌ語辞典があった。2種類のアイヌ語辞書を所持しているが、どうしてもバチェラー「アイヌ・英・和辞典」が欲しかった。しかし、定価が2万7千円程度とちょっと高い。そこで、WEB上の「真理子日曜学校 - 聖書の言語入門」ページに「バチェラーWEB蝦和英辞典」なる岩波版のコピー版が有り、必要なときそれを閲覧していた(http://www.babelbible.net/batdic/batdic.cgi)。しかし、これもちょっと不便であり、どうしても手元に欲しかった。
今回、AMAZONの中古本で5千円台で入手できることが解り、早速購入したのだ。届くまでの、わくわく感がたまらない。


■■書誌データ
現在、入手可能な版は、岩波書店出版の第四版で、和名「アイヌ・英・和辞典 第四版  ジョン・バチラー」である。この版の第一刷は、戦時中の1938年刊行で、今は1981年の第二刷が書店等で入手可能である。定価は、この種の辞書の性格上、23,000円(1981年当時)とちょっと高めである。

諸版は、以下のようになっている。
初版   1889年 北海道庁出版 ジョン・バチラーの「自序」を付す。この初版本の書名は「蝦和英三対辞書」で、 1980年国書刊行会から復刻刊行された。
二版   1905年 北海道庁出版
三版   1926年 教文館出版 徳川義親侯爵の「献辞」を付す。
四版   1938年 岩波書店出版 ジョン・バチラーの手による刊行である。かれの「序」を冠する。


第四版第二刷の目次の概要は以下のようである。
序論
第一部 文法
     「序」から始まる15章構成のアイヌ語解説
第二部 アイヌ・英・和辞典 pp.1-581
第三部 英・アイヌ単語集  pp.1-100
    バチェラーの辞典について (田村すゞ子)


■■田村すゞ子の第二刷あとがきにモノ申す
この第四版第二刷から巻末に付されることになった田村すゞ子の「バチェラーの辞典について」というあとがきについて一言いいたい。田村女史は、近年死去されたが、早稲田大学の語研の教授であった。私は個人的には面識はなかったがよく知っていた。日本の研究者にありがちなストイックな研究態度を持たれた学者だと思う。

しかし、彼女は、この本のあとがきを書くにはふさわしくない人物であったと思う。出版社の岩波も、田村がアイヌ言語学の当時の権威であったからといって、執筆依頼を出すべきではなかったであろう。田村は、そのあとがきで、一面ではバチェラーのこの辞書のメリットを紹介している。しかし、金田一京助知里真志保の側に立ち、善意に解釈すれば『使用上の注意』と受け取れなくもないが、基本的に、バチェラーを厳しく批判しているのだ。特に、バチェラーに対して品位を疑いたくなるほどの誹謗をを繰り出した知里真志保の言い分を極めて肯定的に引用している。
村田はいう。
知里の批判は、わずかの細かい点を除いてすべて正しい。」と、そして
「バチラーは、終始イギリス人の宣教師という立場を離れず、その視点からアイヌを見ていたらしい。アイヌの子として、一つのまとまった全体としてのアイヌ語を習おうとしなかったのだから、アイヌ語の構造(音韻面でも文法面でも語彙面でも)の基本すらしることができなかったのも、仕方のないことだったろう。」(同8-9頁)

この批判の骨子は、日本の学者の言い分でよく見かけるものだ。つまり、アカデミックなものではないということだろう。しかし、『アカデミックたれ!』というのは、いったい誰に向かって言っているのだろうか。自らに言い聞かせるのであれば、それは自らの研究の首を絞めることになるのではないかと思われる。現に、アカデミックにこだわるあまり、バチェラーを凌駕しうるアイヌ語辞典を彼女自身編むことはできていない。

たぶん、外の世界に向かって、出版関係者、マスコミに向かって言っているように思われる。それは、明治以来の日本の学問の特徴であり、学問は象牙の塔と呼ばれるが、それは大学研究者と出版・マスコミ界との共犯関係の上に成り立っている。その関係は、明治以降の、西欧へのキャッチ・アップ国策上に構築されたものであろうし、そこには近代日本の閉鎖的体質がつきまとっていると思う。

ここには、天皇制を中心とした明治以来の国策を議論するだけではダメだろう。アイヌを中心とした日本の先住民族とその子孫(北陸・東北地方のエミシの子孫を当然含む)の、先住民族としての誇り、それが受け継いだ文化・道徳への誇りを顕彰することなくしては、上記の既得体制に対抗することはできない。ちょっと先走るが、そのような『誇り』は現実に維持され続けていることは間違いない、もちろん、それは学問の世界の話ではなく人々の生活の中においてである。中心的な問題は、人々のそのような誇りを明確にする言論を打ち立てることであり、さらに言えば、そのような言論に基づく運動を構築することであろう。

話を戻して言えば、もとより辞書は、言語学などというアカデミズムのために編むものだろうか。辞書は、何よりも先ず実利に基づいて編まれるものだろう。それは、キリスト教の布教のためであれ、商売の交渉事のためであれ、インセンティブはどんなものでも構わないはずである。要するに、すべての人に対して利用可能で便利なものであれば良いし、できればその言語の背後を構成する文化や習慣を解説し、読者がそれを知り得れば更によい、というものではないだろうか。

■■

私の専門分野からの同様な話を一つすると、南米アンデス地域の先住民言語にアイマラ語というのが在る。幾つかの辞書が絶えず出版されているが、十分に利用に耐えうるアイマラ語辞書がないのである。やはり古い宣教師の手になる「アイマラ-スペイン語辞書」--これはアイマラ古語辞典と呼ばれている-- に頼ることになる。その辞書は、
VOCAVLARIO DE LA LENGVA AYMARA compuesto por el Padre Ludovico Bertonio de la compaña de Jesús, Juli, 1612
という。イエズス会士の宣教師によって編まれたもので、1612年、ペルー南部チチカカ湖周辺のチュクイト地方の町フリで出版されたものだ。この辞書は、その後数度にわたって復刻出版され現在に至っている。

もちろん、キリスト教のバイアスが大きくかかった辞書であることは間違いない。しかし、文化人類学の研究者を始めとして、多くのアイマラ研究を手掛ける人が利用している。もちろん、この辞書だけをうのみにするわけではなく、数種の辞書を比較しながら使うことはいうまでもないことである。何か、アイヌ語のバチェラーの辞書に状況が酷似しているが、日本のように「アカデミズム至上主義」を喧伝する人はいない。

バチェラーの辞書を批判する日本のアカデミックなアイヌ研究者は、バチェラーの研究態度を批判するだけでなく、彼をはるかに超える辞書を言語学の立場から編み出版してみたらどうだろうか、このように忠告したい。


■■AMAZON の「カスタマーレビュー」から
以下、バチェラーの辞書に関して、AMAZON「カスタマーレビュー」から、示唆に富む投稿文を紹介する。

「私は北海道在住で、アイヌ語教室の夜学を始めて3年、知里真志保・編『アイヌ民譚』や金成マツが記録したものをテキストにして5,6人のサークル仲間といっしょに解読しています。よくアイヌ語の先生や仲間たちで言い合うのは、古いユカラを読む時に一番頼りになるのは、このバチェラーの辞書だということです。萱野茂、田村すゞ子、服部四郎など複数の辞書を使ってはいても、それらにない単語があるのは、何にも代えがたい。「今でも十分使える。というより、他に使える辞書がない」という1980年代の梅原猛の評価は、現在でもあたっているのではないでしょうか。初版から第3版ではなく、この第4版が最も単語数が多く、おすすめです。
巻末にある田村すゞ子のエッセイ「バチラーの辞典について」や知里真志保アイヌ語入門』にあるとおり、この辞書に書かれていることを鵜呑みにしないで批判的に用いることは、言語学の素人でも可能です。英語で書かれた語釈や例文の方がより正確で実践的なこともわかります。」

(投稿者 醒文庵 投稿日 2015/9/26)

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