縄文文化は、北国でどう生き続けたか (1)


はじめに
九条改正を含めた憲法議論は、今の日本では、重要問題になっていることは確かであろう。しかし、その取扱は、社会的あるいは政治的正義の論争と、学問的な議論の問題は次元を分けて語る必要がるが、必ずしもそうなっていない。

その問題の一端は、マスコミが憲法学者を必要以上に取り上げることにある一方で、学問的な憲法論そのものが未熟であることにあると思われる。つまり、憲法学は、いわば中世のキリスト教の神学に似ていて、現行の憲法を所与のものとして疑うことなくその解釈に腐心しているのである。もとより、現状の政治状況では、そのような解釈学は全く不要であるばかりでなく、肝心の論点をずらす危険性すらある。もし学問としての憲法学に意義があるとすれば、現実問題から一旦は視線を外して、世界の法律体系を比較ながら社会哲学や政治哲学の立場から、憲法の必要要件を議論し直すすることではないだろうか

話がちょっと本題からずれたようだが、日本の歴史学憲法学と同様な傾向がある気がしてならないのだ。つまり、日本史学はヤマト朝廷史観を導きの糸としており、それは疑問を差し挟む余地のない前提になっているのだ。歴史的な細部に言及するにしても、英雄的武将談義や、各地方に息づいた貴族的あるいは庶民的文化を詳論すると行ったものになっており、ヤマト朝廷史=日本の歴史という構図から逸脱することはない。その意味で、現状の日本史学は、解釈学としての憲法学と50歩100歩だ。

長いヤマト朝廷の歴史が現代に綿々と影響し続けており、現代日本人の社会的・政治的核心を形成している事実をないがしろにするつもりは全くない。しかし、そのことと日本列島における人類の歴史を学問的に明らかにしていこうとすることは、連動させるべき事柄ではない。

大和朝廷史も日本列島で展開された人類史の一部にすぎない。この人類史を解明しようとすれば、従来の文献学に偏った史学だけでは十分ではなく、考古学、人類学、口頭伝承学などのアプローチが当然必要になる。近年、その新しいアプローチから明らかになってきたことは、日本列島の上で繰り広げられてきた歴史が、地球上のどの地域でもほぼ同じように繰り広げられてきた「先住民」と「渡来人」(ときには征服者)との相克の歴史であるということである。特に日本列島の歴史は、長い縄文文化の土台の上に立っており、その変容と継承の上に人間の歴史が展開されている事を見落とすべきではないことを肝に銘じるべきである。

以下に展開する理論は、瀬川拓郎氏(旭川市博物館館長)による縄文の遺子であるアイヌ民族の独自性とその変化の足跡に関する、彼の見解のマトメである。



中世アイヌ生存戦略—その戦略的交易システムについて

中立地帯と疑似親族

縄文時代には、津軽海峡の両岸の人びとは同じ地域文化圏に属しており、海峡が文化を隔てる障壁とはなっていませんでした。しかし、北海道と東北北部の交易が活発化する九世紀後葉以降、津軽海峡は文化の境界として固定化されます。

交易を通じて交流がさかんになるのですから、ふつうに考えればたがいの文化は混淆し、境界は流動化するはずです。しかし実際にはまったく正反対の状況がみられるのです。文化の混淆という点では,青苗文化がまさにそれにあたりそうです。しかし、中間文化として明確なスタイルと固定化された境界をもち、擦文文化の側にアイデンティティを見せる青苗文化を単純に境界の流動化と評価することはできません。

九世紀後葉以降、擦文文化の人びとは特定種の狩猟漁撈に特化していきました。一方、東北北部の和人は水田開発、鉄生産、窯業、製塩といった農業・工業生産に特化していきました。境界の固定化は、このような「民族間」の分業体制の確立と、それにともなう文化の差異の拡大によってもたらされたと考えられそうです。

つまりそこでは、擦文人と和人の文化の差異が拡大すればするほど、交易という両者の共存がますます強固なものになっていくという、逆説的な関係が存在していたことになるのです。ただし、大きく異なる文化の間に、このような共生関係が自動的に成立するわけではなかったようです。

例えば、十七世紀の北米先住民アルゴンキンとフランス人の毛皮交易を見ると、そこでは相互依存の同盟関係がむすばれ、贈与交換をもとにした「中立地帯」がつくりだされていました。また中央アフリカコンゴ共和国では、狩猟採集民ムブティと農耕民のあいだに贈与交換をもとにした「疑似親族」の共存体制が築かれ、この疑似親族である農耕民を通じて外部の商品経済との関係が保たれていました。

では、狩猟民のアルゴンキンやムブティは、なぜ直接的な商品交換を避け、「中立地帯」や「疑似親族」を通じて交換をおこなっていたのでしょうか。

贈与交換をおこなっていたアフリカのカラハリ砂漠の狩猟採集民コイサン人の場合、かれらの社会に商品として入ってきたものは、社会の規範からはずれたものであり、本来の社会の分配のルールにのせる必要がないものとみなされました。そのため商品は、コイサン人社会の平等の価値観を大きく揺るがすことになりました。つまり、外部の社会から物々交換でもたらされる商品は、ひとたび内部に入りこむと、社会のルールにしばられないものとして存在することになったのです。

擦文文化の人びとにとっても、この平等原則をおびやかす商品交換は強く避けられており、そのため文化の境界に、和人との「中立地帯」や「疑似親族」がもとめられていたのではないでしょうか。そして、その役割を担っていたのが青苗文化だった、と考えられるのです。

擦文文化の人びとは、祖先を共有する青苗文化の人びとと贈与交換をおこない、その青苗文化の人びとは、婚姻関係をもつ東北北部の和人と贈与交換をおこなう。青苗文化を介するこの贈与交換の連鎖によって、擦文文化の人びとは直接的な商品交換を避けながら和人との交易を実現していたとみられます。


贈与交換の変容

十五世紀になると、道南の渡党の領域には、武装した和人商人が入りこみました。
彼らが占めた地域は、擦文時代の青苗文化の領域と重なります。つまりその目的は、アイヌと和人の「中立地帯」「疑似親族」をのっとることにあった、ということができそうです。
(省略)
和人商人による「中立地帯」「疑似親族」ののっとりによって、青苗文化―渡党を介した和人とアイヌの贈与交換のシステムは失われることになりました。アイヌは、和人とのあいだで直接的な商品交換をおこなうことを余儀なくされたのです。
ただし和人とアイヌの商品交換は、市場で売り買いをするようにおこなわれていたわけではありません。アイヌが道南の和人のもとへさまざまな交易品を土産として持参すると、和人が酒食でもてなし、コメ、木綿、漆器などを返礼として贈る、交歓儀礼をとおしておこなわれました。贈与交換の形式を踏襲したこの儀礼的な交易は,ウイマムとよばれていました。

とはいえ、これは本質的に商品交換にほかなりません。そして、商品としてはいりこんでくるようになったモノは、コイサン人の社会がそうであったように、アイヌ社会の平等原則を大きく揺るがしていくことになったにちがいありません。実際、この時期以降、首長居館としてのチャシの出現や、大量の宝をたくわえ奴隷的な人びとを従えた首長の登場など、アイヌ社会の階層化は拡大していったのです。

ところで、アイヌと北東アジア先住民のあいだでは、直接相手に接触することなく物々交換をおくなう、沈黙交易とよばれる奇妙な習俗がみられました。
これは、交換したいとおもう品物を海辺や山中などの「境界」に置き、しばらくその場を離れると交易相手がやってくる。交易相手がこれに見合う品物をおいて立ち去ると、ふたたびやってきて交換品を持ち去る、というものです。このような習俗は世界中で記録されています。

沈黙交易は、古代の続縄文人とオホーツク人、中世のサハリンアイヌツングース系先住民、近世のサハリンアイヌとサンタン人のあいだでおこなわれていました。ほかにも近世の北千島アイヌと北海道アイヌのあいだでもみられましたが、これらは基本的に北東アジア先住民の側の習俗であり、おこなわれる理由もさまざまだったようです。

ただし、これらの沈黙交易の背景に、異民族との直接的な物々交換=商品交換にたいする忌避の意識があったのは間違いありません。かれらのなかでは,私たちが考える以上に、平等原則を突き崩す商品交換という「ウイルス」が強く恐れられていたのです。

青苗文化―渡党という「中立地帯」「疑似親族」を失ったことは、アイヌの歴史においてきわめて深刻な意味をもつ出来事にほかなりませんでした。

瀬川拓郎「アイヌと縄文-もうひとつの日本の歴史」(ちくま新書。2016)より


「渡党(わたりとう)」について
中世のアイヌ社会に関する数少ない史料である「諏訪大明神絵詞」(すわだいみょうじんえことば)によれば、十四世紀の北海道には三種類の蝦夷アイヌ)、つまり日ノ本、唐子(からこ)、渡党(わたりとう)がいました。
このうち唐子は、中国風の文化を帯びた人びとを意味する言葉であることから、大陸との中継交易にあたっていた北海道の日本海沿岸グループとみられます。また日ノ本は東方を意味することから太平洋沿岸グループとみられます。
唐子と日ノ本は、和人と言葉がまったく通じず、鬼神のような姿をしていたとされます。つまり、かれらの実態は和人側にほとんど把握されておらず、直接的な接触はほとんどなかったことがわかります。
これにたいして渡党は、和人に姿(装束や髪型か)が似ており、言葉も大半が通じました。しかし髪やヒゲが多く、全身に毛が生えているなど、和人と異なる形質的特徴をみせています。さらにイナウや骨角器の毒矢の使用など、近世アイヌと共通する文化をもっていました。
かれらは渡島半島南端の松前から青森の和人のもとへ頻繁に往来し、交易を行っていたとされます。渡党の情報だけがくわしいのは、和人とアイヌの交易を担っていたのがもっぱら渡党であったことを示しています。かれらは中継交易民としての性格をもつ人びとだったのです。
(省略)
蝦夷アイヌ)の一種でありながら和人との中間的な性格をみせていた渡党は、十世紀中葉に成立した青苗文化の人びとの、十四世紀における姿とみてまちがいありません。(206−207頁)

「青苗文化」について
擦文時代の九世紀後葉になると、北海道の日本海沿岸には河口港としての流通集落が一斉にあらわれました。さらに一〇世紀中葉になると、渡島半島日本海側には、擦文文化と本州の文化の中間的な様相をみせる、私(瀬川)が「青苗文化」とよぶ文化が成立します。これは一一世紀末まで松前町から、せたな町の地域で展開した文化です。この青苗文化は、和人とアイヌの交易を考えるうえできわめて重要な意味をもっていました。
(省略)
最近、この青苗文化の成立とかかわって、注目すべき研究成果が報告されました。文字資料がかぎられる古代東北北部の歴史的な実態は、考古学研究が進んだ現在でもよくわかっていません。そこで青森・秋田・岩手三県のの考古学研究者がチームを組み、「平安時代国勢調査」と銘打って、東北北部で発掘調査された一万棟を超える建物跡のデータベースを構築したのです。その結果、時事や地域によって建物跡の数が大きく変動している事実が明らかになりました。(注)
東北北部における人口変動の大きな画期は二つありました。
一つは九世紀末葉ーー十世紀初頭です。東北北部の北半で人口が激増し、南半では激減します。そこには南半から北半への移住が想定され、同時期に活発化した擦文文化との交易がかかわっていたのではないかとされます。
もうひとつは十世紀中葉です。東北北部全体で人口が半減する「衝撃的」な変化がみられます。そこには、938--939年に噴火した朝鮮半島白頭山火山と、それによってひきおこされた気候変動の影響や、北海道への移住も考慮されなければならないとされます(北東北古代集落遺跡研究会編 2014)。
十世紀中葉に成立した青苗文化の土器は、青森県の土師器を源流にするものです。したがって、青苗文化の市立には青森からの移住が想定されます。さらに青苗文化の知り付きの遺跡は、白頭山火山灰が道南にも降下したあとで営まれるようになります。東北北部の人びとの北海道移住は、北海道の側からも支持できるのです。
青苗文化成立の契機が、東北北部の側から具体的に指摘されたことは、この文化の性格を考える上できわめて大きな意味を持つものなのです。

(瀬川・同上書)

(引用者 注)
以下のHPで、いわゆる「平安時代国勢調査」の報告書を入手できます。
北東北古代集落遺跡研究会 研究報告書のダウンロード
https://sites.google.com/site/kitatohokukodaisyuraku/yan-jiu-bao-gao-shunodaunrodo




瀬川拓郎氏の近著      いわゆる「平安時代国勢調査」  














私見のテーマ
次回以降で掘り下げてみたいと思っているテーマです。

  • 民族と、「文化」・「言語」(文化的遺伝子)の用語法
  • 「外部交易」「内部交易」を含めた「交換」と、互酬・再分配の関係
  • 東北北部の「エミシ」の実像はどうであったのか


    

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