GHQ史観から自由だった諜報員が敗戦国日本を語る


■ 最近の読書は、西川一三著「秘境西域八年の潜行」(中公文庫)である。この著作は、様々な版が存在するが、文庫本3分冊ものが一番完全で読みやすい。

これは紀行モノのカテゴリーに属する。僕は、紀行モノが好きだ。小説とは異なりノンフィクションのところがよく、興味をそそられる。人びとの生活、文化、風習が現場主義の視点で語られる。そこが良いし、僕のこれまでの活動と軌を一にしている。

一例をあげれば、南米ペルーのスペインによる征服時期、シエサ・デ・レオンという従軍記者がいた。彼の書いた「年代記」は紀行文である。しかし、何と言っても一番多く読んだのは、アジア地域の紀行文のようだ。やはり一番身近にあるからだと思う。今、思い出すだけでも、明治初頭に来日したイザベラ・バードが記した「日本紀行」、これは面白く、特にアイヌ集落の描写が素晴らしい。また、これは紀行文ではないがそれにおとらないくらい現場主義的な雰囲気を持つものとして、英国人チャールス・マクファーレンによる「日本1852--ペリー遠征計画の基礎資料」を挙げることができる。

さらに、第二次大戦期のアジア地域のものとして、ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ著「竹林はるか遠く」をまず挙げることができる。これは、1945年日本の敗戦が色濃くなった時期以降のもので、今の北朝鮮の北部から日本への逃避行を体験的に記したものだ。この本は、日本人と朝鮮人との基本的民族性の違い、敗戦後の日本社会が朝鮮社会と同等な不寛容で恩義を感じなくなっている一面など、考えさせられることが多くある。

■ さて、西川一三氏の旅であるが、これは群を抜いて長い期間をかけたものだ。彼の任務は日本軍の諜報活動であった(駐蒙古日本大使館情報部に属していた)が、その活動の中身が具体的に何であったのか知る由もなし、本当に諜報活動の成果があがっていたのかどうかも疑わしいのである。当たり前のことであるが、それに関する言及は、ほとんど、日本軍関連は一切、彼の紀行文には出てこない。一部諜報活動と関連するものが在るとすれば、同僚諜報員の木村肥佐生氏との時々の出会いと、日本の敗戦情報の交換と確認ぐらいであろう。もちろん両者とも、話は蒙古語を使用し、日本の諜報員であることを周辺に悟られることはなかった。

ところで、任務に当たるべく彼が大陸に渡ったのは、1934年であり、帰国したのは1950年で、あし掛け15年を費やしている。旅の行程は、蒙古から青海地方、そして、そこからチベットへ、最後はインドであるが、そこからネパール、西康地方へも出かけるという具合である。この旅の全行程には八年を費やし、それは名前を変え、蒙古人に身を隠し、多くの場合ラマ教巡礼者としての旅であった。途中チベットラマ僧修行に一年以上を費やしてもいる。

彼の鋭い筆使いを2点で特徴づけることができると思う。
第1点は、人びとの生活風景、振るまい方、あるいは自然風景の中に各地方特有の文化と伝統、価値観を見出してくる民俗学的眼力の鋭さである。それに博学の知識が加わって、文化伝統の分析が始まり、読み応えがある。第2点は、彼は旅の途上で 大戦の進行状況、具体的には真珠湾攻撃が始まり、苦戦の末、敗戦したことを知っていくということに関連する。つまり、彼は、戦場から離れた土地を旅していたのであり、敗戦も直接には体験したわけではない、そうゆう諜報軍人なのだ。このことは何を意味するかというと、大東亜戦争の進行と敗戦を占領軍GHQの視点から無縁なところから見つめることができていたということなのだ。

このような彼の経験は、彼の同僚であった木村肥佐生氏のものを除けば、日本人として稀有なものに属するのではなかろうか。その経験というのは、西川氏が、敗戦に基づく本土のGHQ支配とその閉鎖空間で行われた占領政策のバイアスのかからない視点で日本の戦争と敗戦を見つめていたということ、そういう位置にいたということだ。これはまた、1980年代の江藤淳GHQの告発、さらに近年再熱しているGHQによるWar Guilty Information Programの告発に基づいて、大東亜戦争の具体的資料に基づく見直しが起こっていることに、大きな資料を提供していると言えよう。

彼の作品は、現代においてこそ、評価されてしかるべきものである。文芸作品のうちでも、宮沢賢治などの詩作品に於いてもそうであるが、ノンフィクションの作品は、時の経過がその評価にえてして必要なものだ。

以下は、彼の著作からの私が注目した部分の一部の抜粋である。

チャンドラ・ボースは生きている

「いや、そんなことは絶対にない」
と、相手はますます真剣になってきたので、これ以上反駁する気になれなかった。まったく、彼らは、私が自分を疑い、スパス(チャンドラ・ボース)氏は本当に生きているかもしれないと思うほど、彼の生存を信じていたからである。
その後も「チャンドラ・ボース氏はチベットに隠れておられるそうだが、お前は見なかったか?」の質問を至るところで受けた。時には、「北京で健在である」という噂もたびたび聞かされ、「何月何日、何時何分、北京からチャンドラ・ボース氏がインドに向けて放送される」という噂をたびたび耳にし、インド人達は真剣になって、これについて語り合い、その時を待っていた。

そのたびに放送は聞かれなかったが、それでも私がインドを後にするまで、チャンドラ・ボースの生存説と彼の北京、ときにはモスクワからの放送説は常に人びとの話題となり、噂は次々と起こっていた。彼の人気たるや、インドの救世主、神と仰がれ、彼の肉体は死んでも、彼の魂はインド人の魂の中に永遠に生きているのである。闘いに敗れた祖国日本は本当に戦いに敗れたのだろうか。たとえ目的、手段が正当でなかったという非難は非難としても、インド、ビルマシンガポール、タイ、インドネシアフィリッピン、朝鮮の独立という事実は、日本の大東亜戦争における戦果であるといっても過言ではあるまい。その日本が反対に米国の植民地となりつつあるということは、アジアの同志をどれほど悲しませていることであろうか。


collaborationist provisional government of Free India led by Netaji Subhas Chandra Bose




つぎは、西川氏が、すでに日本の敗戦を知り、彼の旅の終りごろインドに滞在していたおりの出来事であった。今日に至るまでの日本とインドの情緒的な結びつきが垣間見えて興味深い。

初めて日本人と見破った軍人

サンキサーに向かおうとして、ラクノー駅のプラットホームに立ったときのことだった。

(そのホームで、西川氏は、あるラマ・グループを混じえ、ある大学教授との別け隔てのない歓談で一時盛り上がった。)

東のバルランプール方面に向かう教授とチベット人の巡礼者を見送って、デリー方面に向かうプラットホームに移っていったときのことだった。思いがけなく、
「コンニチハ」
と、はっきりした日本語で挨拶された。私はどれほど驚き、ぎくっとしたことであろう。声をかけたのは、プラットホームでデリー行きの列車を待っていた、二十数名のインド軍の将校団のひとりであった。この挨拶にどうして私が日本語で挨拶を返すであろう。とぼけて知らぬ顔ををしているとまた、
「コンニチハ」
と、日本語で声をかけ、彼らは手招きをしながら、私を呼んだ。仕方なくインド式に合掌して、
「キャ、ハイ、バギー、カバシャ、ナヒンジャンタ、ハイ(なんですか、旦那方のことばは分かりません)」
インド語で聞き返すと、さらに日本語で、
「ここへ坐りませんか」
と、彼らは私を頭から日本人だと決め込んで話しかけてくるのには、いや、まったくまいってしまった。なおも分からぬ振りをして、頭をかしげていると、
「あんたの国はどこですか」
と、やっとインド語できいてきた。
「蒙古です」
「本当に蒙古人かね」
「そうです」の答えに、彼らの口からは、
「日本語が話せるんでしょう?」
「もう隠すことはないよ」
「蒙古人なら蒙古人でいいではないか」
と、いろいろなことばが吐き出された。ここまできては、と思った私は、
「本当に蒙古人です。しかし日本語は少々知っています。というのは、私達の故郷には私達の国、蒙古独立援助のため多数の日本軍が住んでいるからなのです」
と、心をゆるすと、彼らの間からは片言の日本語が、次々と飛び出してきた。その彼らの顔は、どの顔も子どものように、また旧知の友にあったようだった。果ては、
「見よ東海の空明けて......」
の行進曲も飛び出し、私も勧められて、もうこの歌の他に、「麦と兵隊」「湖畔の宿」を唄う。アンコール、喝采が起こる。煙草をすすめられる。菓子、果物が買ってこられる。ホームは爆笑、日印語の談笑、歌で花がさき、またも人垣をつくった。
長髪にチベット服、ウールグを背負ったチベット人そのままの巡礼姿に身をやつしている私を、日本人だと見破ったこの将校団は、日本軍と、シンガポールビルマ方面で行動を共にしたスパス・チャンドラ・ボース氏のインド独立軍の将校連であった。彼らは長い間日本人と接していたために、服装こそチベット人に変わりはなかったであろうが、私の容貌がどことなく日本人らしい雰囲気を漂わせているのを直感したのであろう。このように日本人だと見破られたのは、蒙古を出発して後にも先にも初めてのことだった。

インドの英雄スパス・チャンドラ・ボース氏が日本の援助によりサイゴンにおいてインド独立の旗を揚げるや、インド国内ではこれに呼応して、ガンジー、ネール、プラサド氏等数百名のインド国民党の独立派の幹部が、まさに蹶起しようとしていたのである。

...しかし、イギリス軍には、その後2つの「天佑」が訪れる。第1は、インド共産党の独立派への裏切りであり、第2は、日本軍のインド進軍にあたっての戦略ミス、つまり、インド進軍を陸路インド・ビルマ国境を超えで強行しようとして失敗したこと、いわゆるインパール作戦、などに助けられて、イギリス軍のインド支配は簡単には覆らなかった...
更につけ加えて言えば、インド独立軍の創設に日本軍が助力したこと、インパール作戦を強行したこと、には日本サイドに戦略上の錯誤があったことが近年論じられるようになった。)

日本の敗戦と同時に、スパス・チャンドラ・ボース氏とともにインド独立を戦った将兵は故国に引き揚げてきた。当時なおインドを支配していた英国は、このインド独立軍の将兵全員を戦犯として軍事裁判にかけた。このとき終戦と同時に獄舎から釈放されたガンジー、ネール以下の幹部はもちろん、インド国民全員が立って弁護人となり、インド独立軍将兵の無罪を主張し、ついに彼らは勝った。戦犯などとは当然あるべき筈のない汚名を、インド人の中には一人として作らなかった。私の会った将兵も、それらの一員であったのである。

これらの事実と敗戦当時の日本人を比較して見ることもまた必要であろう。昭和25年インドから送還された私は、シンガポールから祖国将兵の戦犯数名の人たちと故国に第一歩を踏んだとき「ご苦労さんでした」の言葉のないのはもちろん、「俺達が引き上げてきたときは、なにしろ石を投げつけられたのだからな....」という言葉を旧友から聞かされた。

立場や勝敗はどうあろと、一旦国のため、国民のために戦った人びとを国民全員が温かい思いやりで迎え慰めあったインドの国民と、軍隊をあたかも敵のように恨み迎えた日本の国民。これが私達の同胞日本人だったのだろうか? いったい自分は日本人なのだろうかと疑わざるを得なかった。

インドのパール博士が、東京の軍事裁判で、だだひとり戦犯反対論を説かれたことを多くのインド人から聞かされた。彼らはこのパール博士の説を、どれほどインド人の誇りとしていたことであろう。前述のインド軍事裁判の結果でも分かるように、インド人としては、まったくそれは当然過ぎるはど当然のことであった。


追 記
この記事を書いたのち分かったのであるが、西川一三氏は、2002年8月に死去されているそうです。もちろん彼の偉業は永遠に記憶されるでしょう。
氏は岩手に在住だったと聞きましたが、捜していけば直接お遭いできるものと思っていましたが、残念です。ご冥福をお祈りいたします。合掌

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自由インド仮政府の旗。東京で開かれた大東亜会議にチャンドラ・ボースが参加したときのものである。


関連記事・文献

  • 戸部良一他「失敗の本質--日本軍の組織論的研究」(中公文庫、1991)


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