泉 靖一氏、『秘境西域八年の潜行』を評する

西川氏の『秘境西域八年の潜行』には様々な版があることをすでに述べたが、本日、私ははじめて、1972年刊行の芙蓉書房版を手にすることができた。これは上下二冊のハードカバーであリ、これがすべての版の初版になっている。そして、この初版本には、七名の高名な人物の序論が付されているのには、驚いた。そのなかに、故泉 靖一氏のものがあり、味読した。




というのは、泉氏は、戦後日本のアンデス学をリードした第一人者であり、僕が経済人類学のフィールドとしてアンデスを選択したきっかけを与えてくれた大先生である。もちろん、直接の面識はなかったのであるが。しかし、アンデスのフィールドで、泉氏の評判はいたるところで耳にしたのである。交通手段の全くない、何日もかけ心身を痛めながらやっと到達できるようなさい果ての牧民集落でかつての村長さんの口から、また、アマゾン低地の小集落のかつての農業省役人の口から、
「お前は、ドクター・イズミをしっているか? ドクターはなんでも知っている学者だったよ」
と、聞かされたものである。



その泉氏は、考古学者であり、かつ秀れたフィールド・ワーカーであったことはもちろんのことである。アンデス中央アジアという風に場所は違うとは言え、西川氏もすぐれたフィールド・ワーカーであると思う。その泉氏であるからこそ、西川氏の偉業に注目し、深くその行動を理解したのだと思う。また、泉氏は戦前朝鮮の京城帝国大学を卒業され、同大でしばらく奉職されていたのであリ、さらに戦後、東京大学東洋文化研究所で活躍されたことを考えると、同氏の視線は常にアジアを注視していたといえよう。


以下、泉氏その序文である。

序文    元東京大学教授 泉 靖一

モンゴルから青海省を経てチベットへ、チベットよりヒマラヤをこえてインドへの道は、古くから探検家にとってもっも魅力のある路線の一つであった。草原と砂漠と高山にはばまれたこの地帯は、きびしい自然とあいまって、政治的にも複雑をきわめ、たやすく旅人を近づけなかったのである。

とくに、満州事変このかた、日本が大陸に積極的に進出しはじめてから、どのような目的を抱いていようと、日本人にとってはまったくの禁断の地であった。西川一三さんは、かような時期に、特務機関の一員として、歩哨線をこえてまずアラシャン地方に潜入し、ラマ僧となって八年間、内陸アジアの諸地方を漂白し、敗戦後インドで官憲に逮捕されて投獄され、日本に送還される。この間、各地で住民と生活をともにし、またおそるべき旅を体験し、想像に絶する労働に耐え抜いてきた。

本書は、西川さんの偽らない手記であって、まづ著者の率直でしかもものにこだわらない清らかな精神に、強くうたれるのは私だけではあるまい。つぎに、さまざまの住民の生活をこと細かく観察し、生き生きと描き出していいることを挙げなければならない。西川さんによって書きとめられた内陸アジアの人々の姿は、ヨーロッパ人が描いたものとは、まったく趣が違っている。著者は、アジア人の一人として、彼らの生活に没入し、彼らと同じ視覚で眺め、彼らと同じ思考の基盤のうえにたって考える。だから、本書に書かれた内陸アジアに、私はより共感が覚える。

このようにみてくると、本書は、人間のドキュメントとしてうけとめうる側面と、内陸アジアの自然と文化の集中的な記録としての半面をかねそなえている。秀れた記録文学には、かような二面性は、不可避の条件であって、それがどのように調和しているかが問題である。西川さんは、これまで専門の文筆家ではなかったが、本書なかで、たゆむことなく両者の調和が見られることは、彼の人柄のかからしめる結果であろう。特務機関の要員として、特定の任務が課せられていたに違いないが、西川さんの思考は、それをはるかにこえて、いつのまにか人間性の研究に向けられ、静かに平和への希求へと回帰する。日本の帝国主義の中に育ち、その尖兵として、行動してきた筆者の語ることを通して、平和の本質を、私たちは強く反省させられるのである。

芙蓉書房版 秘境西域八年の潜行(上下)1972年 より

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