「日中友好」というプロパガンダ


■ 私たちは、集団を形成して生活していくものである。現代では、その集団の中で一番大きなものは国家であろう。その枠内で、私たちは生物的な命の継承を行い、伝統と文化に浸り、または敢えてそれらを改変させて生きていく。「国際社会」という言葉があるが、それは国家のような実態を持ったものではない。それは、国家という枠組みを前提としてその外に向かう時、その時々の集まりというかテンポラルな集団または関係性にすぎない。


国家の意志が外に向かって働く時の動機は、分類するといろいろありうる。通商、話し合い、安全保障上の同盟、敵対的行為、相互理解、文化的あるいは人的交流などがある。しかし、いづれの場合でも、国家という公的主体の活動であるから、国家・国民の利害を一時的にもないがしろにすることはない。また、国家の内側での私達の振る舞い方と国家の外に向かうときの振る舞い方は、当然異なっていなければおかしい。文化と道徳律が異なる領域での振る舞い方としてこれは当然であろう。

反日」に日夜つとめる日本人知識人は、このことを知ってか知らずか、「国際社会」の立場から日本の後進性とかその限定性をあげつらおうとする。彼らは、「世界人」か「宇宙人」なのであろう。

■ さて、「日中友好」であるが、この言葉を私自身そんなにしばしば耳にしたわけではない。過去に聞き覚えがあるとすれば、1970年代の田中角栄内閣の日中国交回復時期と、あいだが飛んで1990年から2000年代の天安門事件以降の日本の中国に対する肩入れの時期である。

もとより中国がこの言葉を言うときはプロパガンダの匂いが、日本人が言うときは金儲けと利権の匂いがつきまとっていたものである。日本国民がこの言葉に本当に耳を貸し、同調していたわけではないと思う。「日中友好」を口走っていたのは、中国共産党使節団は当然としても、日本では経済界の責任ある人物や自民党系の一部の政治家である。しかし、中国のプロパガンダに協力したのは、日本のマスコミ、とくにNHK朝日新聞を始めとした全国紙であった。日本国民は事実とは異なる自分たちの状況を繰り返し注入されたのであり、ある程度それに洗脳もされてきた。

よく考えると、「日中友好」という言葉がおかしい。まず「日中」と「友好」の組み合わせがミスマッチなのである。「日中」は国家間の関係を言っているのにもかかわらず、「友好」は個人的な好意的関係を指し示すものだ。個人的な関係を表す言葉としても「友好」とか「友好的」という言葉が、昔から一般的に定着していたのかは疑わしい。

いずれにせよ、「友好」という表現は日本語であって、中国語では「友誼」という。英語ではfrendshipにあたる言葉である。もちろんこの言葉は、個人対個人の感情を指示しているし、いくら拡張されても、決して公的関係で使用されるべきものではない。では、公的な国家間の関係として、敵対的でも支配服従関係でもない、いわば対等で平和的な関係を示すものとしてどのような言葉が使用されてきたか。

それを知る一例として、1858年(安政5年)の「日米修好通商条約」(Treaty of Amity and Commerce Between the United States and the Empire of Japan)をあげることができる。ここでは、Amity (or Amiability)と表現されており、「修好」の訳語が充てられている。それは、frendshipとは別物であり、決して「友好」と混同されるべきものではない。つまり、国家間の関係としては、「日中友好」を「日中修好」というなら、一応整合性つくことになるのだが。(注)

つまり、「日中友好」という言葉は、それ自体が誤訳である。それも、United Nations を外務省が「国際連合」と意図的に誤訳したのに匹敵する意図的なものではないか。誰が意図したかというと、日本のマスコミ(old media)以外にない。もっとも、陰謀論者はもっと深いヨミを示すかもしれない。国際関係を個人的な感情の領域にひきつけ、日本人にありがちな内向きの世界での「相手に過度に気を使う」という麗しい習性を利用して、中国のプロパガンダを後押しようというたくらみが見えるのだ。

最近、米中経済戦争で苦境に立たされている中国共産党から、またまた「日中友好」というプロパガンダが日本に向けて発せられはじめた。何度目かの同じプロパガンダであるが、またぞろ日本の経済人を始めとして、昔と同じ動きを見せようとしている。草莽の私達日本人は、よくよく注意を怠ってはならない。

■ いま、かなり前に買って読んだ本を寝る前に読み直してみている。その中に金美齢さんのある本から、新鮮な感じを受けとった。特に、「日中友好」のまやかしと危険性について日本人に対して発した警句には感じ入るものがあっので、それを以下、掲載する。。そう言えば、四川省出身の秀才である石平さんも、同様なことを繰り返し言っている。 

 

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中国人は変わらない 

中国人が反日なのは、これは理屈ではなく、幼少時からの刷り込みである。
「なぜ中国人は日本人をきらうのか?」と、日本人は理屈を考えがちだが、これは理屈の問題ではない。
背後には抜き難い日本へのコンプレックスがある。日清戦争は言うに及ばず、第二次世界大戦でも中国は日本に勝っていない。というより、まともに日本と戦っていない。戦勝国になったのは、アメリカのお陰である。だが、敗戦国である日本が、「何故、中国より経済発展したのか」「何故、中国より技術力が上なのか」、何もかもが、気に入らない。
一方で、中国は日本の技術とお金は喉からから手が出るほどほしい。胡錦濤政権が一面で日本に擦り寄るのはそのためで、「日中友好」は方便である。
ちなみに、中国人は、理屈抜きで米が好きと言える。現実の国際政治においては、米中対立の火種は多々あるが、とにかく中国人は無条件にアメリカ好きなのだ。
理屈抜きで日本が嫌い、理屈抜きで米がすき。これは中国人に刷り込まれているDNAと認識すべきである。
(中略)
私からすれば、日本人は救いのないほど中国人に対して甘い幻想をいだいている。
はっきりしていることは、また今後も変わらないだろうことは、中国共産党政府にとって国民の生命などは鴻毛の軽さしかないということである。
晩年の毛沢東ソ連から大量のICBM(大陸間弾道弾)を購入していることに、訪中したフランスのポンピドー大統領(当時)が、「貴国は本気でアメリカとの全面戦争を考えているのか」と尋ねたとろろ、「場合によったらやるかもしれない。我が国は人口が多すぎるから、二千万~三千万人くらい死んでも一向にかまわない」という答えが返ってきて唖然としたという。文化大革命では七千万人が殺戮されたとも言われている。
この甚だしい人命軽視という「中国式」は、太古からいまに至るも変わらない。


私が、「中国人は変わらない」と痛感したもうひとつの例を挙げておこう。上海出身で米ハーバード大学に留学し、帰国後は身についたリベラル感覚が中国共産党政権に耐えられなくなり、中国を出てシンガポールの新聞社の特派員として日本に長く住むことになった友人がいる。自由の価値を認め、それを守ることの意味を知っていた彼と私は、この日本で友人となったが、あるとき彼のひとことに私は絶句し、それ以後交際は途絶えた。
彼は私が台湾独立運動に関わっていることを知りながら「台湾が独立するくらいなら、中国共産党にくれてやったほうがましだ」と言い放ったのである。
これが中華思想なのだ、と痛感した。自由や民主主義の価値を知りながら、彼の体の中には、さらなる上位概念として中華思想が沁みついていたのだ。それは拭いようもない他者への蔑視と同質のもので、台湾人が華夷秩序から離れて生きる自由は一顧だにしない。彼らがチベット人ウイグル人などに対しても同様に見ているのは間違いない。それが日本人に対してでも変わらないということが、金輪際日本人の想像力の中にはないように思われる。


日中友好」という言葉に、日本人はいつまで幻想をいだき続けるのか。
金美齢「私は、なぜ日本国民となったのか」2010、WACより)

 

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(注)

すでに述べたように、国際政治の舞台で「友好」を口走るのは、それ自身すでにプロパガンダ以外のなにものでもない。ところが、日本語には、お人好しにさらに輪をかけた「友好親善」という表現さえある。もちろん、「友好」にしろ「親善」にしろ、日本社会内の私的な関係で使われるべき言葉であろう。

ところで日本語では、友好と親善とでは、それを言放つときの気持に多少の違いがあるような気がする。ちなみに中国語では、友好・親善とも、「友誼」であり微妙な差は存在しない。しかし、ひとまとめのフレーズ「友好親善」を表現したいときは、英語の frendship and goodwill という文言を直訳して「友誼和善意」と言うらしい。このあたりの違いに関連して、以下の笑い話はとても興味深い。

あるインターネットの記事からの拾い読みなのだが、加瀬英明さんがある雑誌に一文(2012年)を寄せられて、その中でつぎのように述べている。
このあいだ都内のパーティで、中国の高官と再会した。
「先生は中日友好の井戸を掘って下さった1人ですから、今後も期待しています」
と、褒めてくれた。私は礼を述べてから、
「日本では安心できない相手の国に対して、友好関係といいます。
日中友好、日露友好、日朝友好に対して、日米親善、日韓親善、日印親善というように、使い分けています。ご一緒に親善関係を築くために、努力しましよう」と、答えた。


友好・親善は、日本語では、少なくともこの程度のニュアンスの違いがあるのだ。ところで、ここに登場する中国高官は、長老の国士である加瀬英明にオベンチャラを使ったようだが、相手が違う。自民党幹事長二階俊博にでもいえばよかったのに。

 

 

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