日米開戦の経緯を追ってみる-1941年(2)

はじめに
昭和16年(1941年)、この年は負けるかもしれない戦争に突入すべきかどうかの葛藤に、日本は打ちのめされていた。対外戦争では常勝していた日本の歴史上かつてないほど重要かつ危機の年である。戦闘は、かなり前からすでに始まっていた。支那事変がそれであるが、昭和16年には、この戦闘はすでに泥沼化していた。さらに、仏印への帝国陸軍の進駐も完了していた。つまり第二次大戦の前半はもう始まっていたということができる。
ここでいう「負けるかもしれない戦争」とは、対英米戦争のことである。日本という国の存続にかかわるこの戦いの開戦に葛藤していたのである。しかし、国内のジャーナリズムというか市民やインテリ層の間では、開戦を焚き付ける論調と言動がヒートアップしていたのである。軍の上層部は、それほどファッショ化してはいなかったが、下級将校連の心底は即刻開戦で固まっていた。本当に葛藤していたのは、一部の軍と政府の上層部、そしてなにはさて置き昭和天皇自身であった。
その葛藤が如実に現れたのが、昭和16年9月から11月の間であり、その端緒は、同9月5日と6日だと考えられる。この両日の動向を追ってみるとことは、意義深い。これは、以前にしたためた「日米開戦の経緯を追ってみる-1941年」http://d.hatena.ne.jp/kobayaciy/20180519/1527038388 への続編である。

                        • -

1941年9月5日 金曜日
(午後、近衛文麿首相が、大本営政府連絡会議の結論を、天皇へ奏上した。天皇はその内容に疑義を唱えたことから、首相と統帥部総長を交えて再度討議することになった。)
午後6時5分、御学問所において再び首相、ならびに急遽参内の参謀総長杉山元軍令部総長・長野修身に謁を賜う。
冒頭、天皇は帝国国策遂行要綱は外交を主とし、戦争準備を副とすべきにつき、要綱の第一項と第二項の入れ替えを要する旨の御意向を示される。参謀総長より戦備完整後に外交交渉を行う所以を言上につき、天皇は、南方作戦の成算と予測される事態への対処方につき種々御下問になる。参謀総長より陸海軍において研究の結果、南方作戦は約5か月にて終了の見込みである旨を奉答するも、天皇は納得されず、従来杉山の発言はしばしば反対の結果を招来したとされ、支那事変当初、陸相として「速戦即決」と述べたにもかかわらず、未だに事変は継続している点をご指摘になる。参謀総長より、支那の奥地が広大であること等につき釈明するや、天皇支那の奥地広しというも、太平洋はさらに広し、作戦終了の見込みを約5か月とする根拠如何と論難され、強きお言葉をもって参謀総長を御叱責になる。
参謀総長が恐畏するなか、軍令部総長は発言を願い出で、現在の国情は日々国力を消耗し、憂慮すべき状態に進みつつあり、現状を放置すれば自滅の道を辿るに等しきため、ここは乾坤一擲の方策を講じ、死中に活を求める手段に出なければならず、本要領はその趣旨により立案され、成功の算多きことを言上する。
天皇は、無謀なる師を起こすことあれば、皇祖皇宗に対してまことに相済まない旨を述べられ、強い御口調にて勝算の見込みをお尋ねになる。軍令部総長は、勝算はあること、短期の平和後に国難が再来しては国民は失望落胆するため、長期の平和を求めなければならない旨を奉答する。
ついで両総長は、決して戦争を好むにあらず、回避できない場合に対処するのみであることを言上する。首相より、最後まで外交交渉に尽力し,已むを得ない時に戦争となることについては両総長と同じ気持ちである旨の言上あり。ここに天皇は、首相と両総長の言上を承認する旨を述べれれる。
6時50分、首相・両総長は御前を退下する。同55分、天皇は第6回御前会議開催に関する内閣上奏書類を御裁可になる。
(参照:侍従日誌、侍従職日誌、内舎人日誌、侍従武官日誌、内大臣府日記、御裁可モノ控簿、大本営政府連絡会議議事録、御下問奉答綴、百武三郎日記、小倉庫次侍従日記、木戸幸一日記、澤本頼雄海軍大将業務メモ、田中新一中将業務日誌、機密戦争日誌、侍従武官城英一郎日記、近衛文麿公関係資料、日本外交文書、木戸幸一尋問調書、陣中日誌、杉山メモ、高木惣吉日記と情報、平和への努力、昭和天皇独白録)
昨月中旬以来御静養の皇后は本日御床払につき、天皇は皇后とお揃いにて奥御食堂において御夕餐を御会食になる。

9月6日 土曜日
午前9時40分、内大臣木戸幸一をお召になり、同55分まで謁を賜う。天皇内大臣に対し、本日の御前会議において質問した市と希望され、種々御下問になる。内大臣は、御疑問の重要な点は枢密院議長(原嘉道)より質問すべき予定につき、陛下としては最後に今回の決定は国運を賭しての戦争ともなるべき重大なものであるため、統帥部においても外交工作の成功をもたらすべく全幅の協力をなすべき旨を御警告になることが最も適切と思考すると奉答する。
午前10時、御前会議開催につき、天皇、東一ノ間に臨御される。(以下省略)
昭和天皇実録」第八より

これ以降の経過概略
10月16日
近衛文麿内閣の総辞職
10月17日
東条英機に後継内閣の組閣を命じる
10月23日
この日より、東條首相が議長を務める大本営政府連絡会議が皇居内で連日開かれる。テーマは、10月の御前会議決定の「帝国国策要綱」の若干の手直しと日時等の具体化であった。
11月1日
最終の連絡会議が昼夜を通して開かれる。翌日、東条首相が天皇にその結論を報告した。
11月5日
御前会議
12月1日
御前会議。開戦を天皇裁可。

11月後半になって、米国ルーズベルト政権の対日戦争戦略が具体化した。このことは目に見える現象は何もなかった。目に見える具体的出来事は、米国からの「ハルノート」の付きつけであったが、この事実すらも米国内では隠されていて、知らされていなかった。

                        • -


付録1
昭和16年10月−11月、状況は更に差し迫ってきた。しかし、開戦決定の重みと覚悟は、首脳それぞれにとって、9月−10月時点から変わっているわけではないだろう。毎日新聞(下記)が「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」を取り上げ、開戦決定を討議する首脳陣の無責任さを批判する同紙の記事は、さすがオールド・メディアならではの物言いだと感じる。もとより、今の我々が、過去の重大事決定についてその責任を追求することなどできるのかという気もする。「我々は一体何様なのだ!」ということなのである。あるいは、「新聞よ、あんたが言うな」といいたい。

もし、本気で日本国民が開戦当時の首脳陣お責任を追及するのであれば、「極東裁判no.2」を提起することにならざるを得ない。その際は、GHQによる極東軍事裁判を破棄することを前提とし、国民による敗戦の責任者の責任追及ということになるだろう。しかし、それはすでにおそすぎるし、現に過去、国会で全員一致で「戦犯」をすべて免責しているのだ。もし改めてと言うなら、我々にその覚悟と確固たる意志があるのかを問いたい。それはないだろう。ただ、評論家的態度をとっているに過ぎないと思う、それこそまさにWGIPの術中にあることになる。

米英との開戦にあたり政府・大本営連絡会議で決定…
毎日新聞2015年12月8日 02時30分
 米英との開戦にあたり政府・大本営(だいほんえい)連絡会議で決定した「対米英蘭(らん)戦争終末促進ニ関スル腹案」という文書がある。戦争終結の目算を示した文書だが、願望を書き連ねた「官僚の作文」と悪名高い▲つまり独伊と協力して英国を屈服させ、米国の継戦意志を失わせれば戦争は終結するという。だが肝心の英国打倒はソ連と激戦中のドイツ頼りで、米国が戦意を失うのも願望にすぎない。米国を屈服させる手段がないのに戦勝をうたうにはこんな筋書きしかなかった▲文章を起案した陸軍省軍務課の高級課員は後年、昭和史家の保阪正康(ほさか・まさやす)さんの取材に対し開口一番(かいこういちばん)、「考えてみれば無茶苦茶(むちゃくちゃ)な話ですよ」と語ったという。勝利の確信も持てぬまま上司に作れと命じられ、頭の中でこねくり回した文字通りの「官僚の作文」だったのだ▲その当人も驚いたのは苦しまぎれの文案がそのまま軍と政府の首脳の間で異議なく了承されたことという。戦争終結の見通しは戦争目的とも密接に関連する戦争指導の核心をなす。他国なら最高政治指導者の判断と意志に属する(「昭和史、二つの日」山川出版社)▲ではその時、政治を指導してきた人々は何をしていたか。たとえば南部仏印進駐で対米戦争に道を開きながら、陸軍を説得できず政権を放り出した近衛文麿(このえ・ふみまろ)はつぶやいた。「えらいことになった。僕は悲惨な敗北を予感する」。奇襲成功にわく開戦の日のことである▲一方、先の文書を連絡会議に出した東条英機(とうじょう・ひでき)首相はこう語った。「日本には三千年来の国体がある。米国には国の芯(しん)がない。この違いがきっとでてくる」。くむべき教訓の尽きない12・8である。
web毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20151208/k00/00m/070/173000c



付録2
重大事の決定について、目先の対処を考えることと、大局的に進化の先を読むことの2つが必ず考慮されてくる。1941年の日本の岐路についても、首脳陣は2つのことを考えていたのではないか。池田信夫氏に下記の動画は示唆に富む。

/*