北国の放射能温泉訪問記:「玉川温泉」にまつわるエピソード(1)



なぜ玉川温泉を訪問したか
「3.11からまだ2年」。人によっては、これとは違う感慨を持つ、「3.11からもう2年」と。どちらも、東日本大震災福島原発事故の現場に足を運んだ人々の口から洩れる言葉だ。しかし、見つめ、憤慨している対象が違っている。「3.11からまだ2年」の方は、はっきりと怒りを含んだ声で発せられる。誰に怒っているかというと、被災者ではない多くの日本人に対してである、もう忘れてしまったのか、まだ2年しか経っていなぞ!

私の場合、この前者の声を発する。特に、福島第一原発の壊滅的事故の直接的影響、その後の永久とも思われる放射線被害を心配し、その責任の所在を明らかにすべきと考える一人として、「まだ2年しか経っていないのに、なんなんだ、この落ち着き払った日本の空気は」、と告発せざるを得ない。

たった2年で、あの原発事故はその重大性と危険性が忘れ去られたかのようだ。昨年末の「事故終息宣言」、その後「原発再稼働」に向けての動きの始まり。安倍政権下では、「原発再稼働」は既定方針となり、挙句の果て、首相は「原発技術輸出」のセールスを訪問する先々で演じる始末だ。

しかし、振り返ってみると、実は2年たったから忘れられようとしているのではないことが分かる。事故直後からこのことが仕込まれていたのである。身も震えるような前代未聞の原発事故を、過少に見せよう(パニックが起きないように)、責任問題に発展する情報は隠そう、という「政府」の態度があたかも成功を収めたかのようだ。あの枝野の連日の記者会見の様子が思い出される。彼自身、本当は身も震えていたはずだ。

そこで、「政府」とは誰のことか、が問題だろう。それは、責任を免除された支配力である官僚機構(中心的力は警察・検察が握っている)のことであり、政治家としての内閣の閣僚そのものでは決してないのだ。官僚は、いろいろな意味で反住民的なのだ、だから売国奴と呼ぶにふさわしい。さらに。御用マスコミ、御用学者がその外堀を固めている。嘆かわしい実態が日本の現実なのである。

政治の世界では「謀略論」がよくささやかれる。確かに昭和に入ってからの数ある疑獄事件は、政治的謀略であった。ごく最近では小沢一郎「疑獄事件」がその政治的謀略の最たるものであった。しかし、何もかもを「謀略」に結びつけると、問題の核心がボケる場合がある。原発事故と放射能に対する国民の態度が、まさに「謀略」では済まされない問題であって、根が深い。むしろ政治的謀略の方が対処しやすいともいえる。謀略がばれた暁には、その首謀者は攻撃にさらされるし、「革命」が起こるかもしれない(日本ではまず起こらないだろうが)。

そこで次の課題を提起したい。日本の国民は「放射能」とどうつきあってきたのだろうか。日本という国は、世界に類をみない「放射能」まみれの国である。広島・長崎の原爆の被爆体験を持ち、太平洋上での戦勝国による水爆実験の被害も受けた、そして今回の福島第一原発事故の未曽有の放射能にさらされた。放射能施設の小さな事故を入れれば、数えきれない。これだけの人為的な放射線に曝されると、放射能に対して慣れてしまっている可能性もある。

このたび、放射能温泉で名高い「玉川温泉」へ2泊3日(6月14日―16日)の旅に出た。ガン患者が多く湯治に出かけるという。そこで、ここの放射能の物理的特性と、湯治目的の訪問者の放射線に対する意識、あわよくば古来からの知恵がこの温泉をどう言い伝えてきたか、などの資料を収集するのが当初の目的であった。もちろん、日に2度お湯につかって「放射能」を体験したのは言うまでもない。

玉川温泉はどんなところにあるか
玉川温泉は、本来「鹿の湯」と呼ばれ、人里離れた山奥にある。所在地は奥羽山脈の中央部、森吉高地と八幡平高原の間の横たわり、雄物川の支流である玉川沢のまたその一支流に沿った谷あい、渋黒沢という処にある。行政的には、秋田県岩手県の県境にあるが、秋田県に属している。

田沢湖方面から入山すると、ここにたどり着くまでに、玉川ダムとその貯水湖を抜け、その先でブナの原生林をいくつも通り過ぎる。心安すらぐ風景が続く。ブナの森は、東北地方の北部を特徴づけるものであり、蝦夷の里を彷彿とさせる。白神山地のブナの森は何度か訪ねたし、数か月前、震災の被災地宮古を訪ねるため、盛岡から北上高地を抜けて行った。そこにもブナの疎林が続いていた。ただし、北上高地林業、野菜などの農業を営む人家が山の奥まで入り込んでいた。奥羽山脈のブナ森帯にはほとんど定住人の家は見当たらない。あるのは、ダム貯水湖周辺の観光客相手の2,3のレストランと温泉地のいくつかの宿舎だけである。


[玉川ダムの奥は、杉林が切れてブナの原生林が広がる]

つまり、ここはマタギの里なのだ。かつて、クマなどの大型獣を狩っていた狩猟民マタギのテリトリーなのであって、農民は入り込んでいなかった。マタギの里といえば、ここより西に位置している森吉高原から連なる山地が有名であって、アイヌ語である阿仁のつく地名、たとえば阿仁マタギなど、がいくつもある。現在は秋田内陸鉄道が走っていて、容易に旅行することができるが、この地帯には一種独特の雰囲気がある。いまから5年ほど前に、私はこの地の阿仁前田から森吉高原に向かった所にある保養地に行ったことがある。それも吹雪の激しい12月の年の瀬のことであった。


[内陸線の中央当たりの小さな駅「阿仁マタギ」12.2007]

マタギは現在もいる、というか、活動を続けている。かつて、今から1,000年以上前の、蝦夷の闘士アテルイ坂上田村麻呂将軍の戦いの時代から、この地帯にはマタギがいたといわれる。その当時のマタギは、東北の蝦夷とは異なる集団であって、お互いの交流はなかったといわれる。だから、マタギは北海道から渡ってきたアイヌで、この奥羽山脈の山中で熊追いを専業とする集団であったろうと考えられている。その時代のマタギは、当然この「鹿の湯」の特殊な性質を知っていただろうし、そのことを語り伝えているのではないかと想像する。

その当時と比べると、現在のマタギは、様変わりしている。この地で農林業を営む農民が、時々、あるいは冬場に山に篭って狩猟をする。対象はクマとは限らない。現代でも、そのような活動をする人たちを、マタギと呼んでいる。使用する道具は、もちろん銃である。しかし、その狩猟の仕方とそのしきたりは、古のマタギの流儀を踏襲しているのだという。実は、ここ阿仁の里には幾つかの温泉宿があって、そのような温泉宿では、時々マタギを交えた語りと憩いの場が設けられている。残念なことに、5年前ここを訪ねた時は、そのような場に居合わせる機会を逸してしまった。私はこれにとても興味を持っているのである。

[追記]
ここで余談を一つ。すでに述べたように、3−4月宮古に行った。その道中、北上高地を横断した。まだ、大地にはかなり雪が残り、山頂付近では雪が舞うブナ林を縫って通った。確かに、日本海岸や奥羽山脈と比べると雪が少ないようだ。かなり山奥まで林業中心の農家が進出しているし、太平洋岸の宮古方面に下っていく中山間地には畑もかなり見受けた。こういう状況だらか、樹木はかなり伐採され、ブナの原生林と呼べるものは、もうここにはないと思われる。しかし、カシ、楢といった他のブナ科の樹木、あるいは白樺の木などにまざってブナもすくすくと育っている。森の環境は注意深く守られており、森は生きていると感じる。かつて、フランスの中央高地をボルドーからローカル線を使って、廻ったことがある。その時感じた「森が生きている」という感慨と同様なものをこの北上高地で感じたのだった。

北上高地で感心したのは、実はこのことではない。この山中に存在する農家のたたずまいについてである。ほとんどの農家の外壁には割られた薪が、四面全体を埋めるようにうず高く積み上げられている。枯れ木や間引きされた木を利用しているのだと思われる。家庭用燃料の多くに薪を利用しているということだ。注意深く観察したが、中山間地より高いところでは、ガスボンベを設置している農家を見かけなかった。ガスボンベはすぐに見つけられる。家の外壁に小さな屋根と囲いを付けて、取り換え式の大型ボンベを取り付けるからである。しかし、それがどの家にもない。家の外側に取り付けた装置があるとすれば、屋根の上のソーラーシステムであった。これはいくつか見かけた。たぶん風呂などの大きな燃費を要するものに利用していると思われる。

「薪のカマドとソーラーシステム」、ちょっと奇妙な組み合わせだが、理想的なエネルギー自給のモデルのように思えてくる。これは、何を物語っているのだろうか? 過剰な家電製品の使用をやめさえすれば、日常生活に必要とされるエネルギーは自分の住処の周りで十分調達できるということではないか。エネルギー自給の普遍的モデルがここにある。

もちろん現代生活で、電気を使わない生活はありえない。しかし、過剰に電気・ガスに頼らない生活もいい。どういう意味で「いい」と言っているかというと、節電運動や代替エネルギーを礼賛しているからではなく、自給自足は安定的な生活をもたらすからである。それは、エネルギー・フローの物理的安定性であり、精神的・情緒的安定性である。後進的な生活の中にこそ、生活の普遍性が、えてして宿っているものだ。また、この田舎の風景は、かつて敗戦後の日本の田舎のどこでも見かけた風景ではないだろうか。何か心に残る郷愁に触れた思いがしたのだった。おりしも、昼餉の支度を始めたのだろう、どの農家の煙突からも、今では懐かしい煙が立ち昇り始めた。


つづく





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