2014年暮れ、ためらいと模索のための「小休止」


■ 2014年暮れ、初めから結果の割れた総選挙、その盛り上がらない選挙戦が終わろうとしている。この選挙後に始まるであろう安部首相による全体主義的政治に不安を感じつつ、意識ある日本人は「小休止」の状態にあるといってよい。

安倍再選内閣は選挙に勝っても、このまま突っ走れるはずはなく行き詰るはずだとか、いや、ファシズムに一気に火がつくかもしれない... など、不確かな状況のなかで、私自身行動に踏み出せないでいる。状況を見定めているのだ。そのための「小休止」を決め込んでいる。

しかし、この不確かな状況の中でも、走り続けている人々がいる。状況は行動することによってしか切り開かれないと考えて。それはそれで、素晴らしいことだとエールを送りたい。しかし、今は「ためらいと模索のための小休止」が必要だと感じる。それは、次に動き出すために取らなければならない必要かつ重要な営為なのだ。

今立ち止まって振り返ってみると、、思い出されるのは、2009年政権交代のあの「時代」だ。かなり昔のことのように思えてくるが、たった6年前のことだ。その間いろいろなことが次から次へと起った。3.11がその最大のものだが、野田政権によるアット驚く裏切り行為などなど。



■ 2009年の秋、それは政治的に大きな盛り上がりであった。

政治的意識を持ち続けた老年層、新たに政治的に自覚した若年・中年層、そして女性たち、つまり広範な市民が、行動を起こし、自民党が引っ張ってきた戦後の体制にNO! を突きつけた。それは、選挙という形をとってはいたが市民革命のようなものだったと思う。私も、街頭デモに久しぶりに参加し、小沢一郎を始めとした各種の政治集会に参加した。そして必然的に、「民主党」を応援したのだった。

かくして、合法的に政権交代が成し遂げられた。つまり、市民が勝利したのだ。もちろんこれは形式的な事象であり、権力を手にして民主党政治家がどう覚悟を決めて行動するかが、本当の意味での勝負であった。つまり、「革命のレアリズム」が始まったのだ。ところが、出てくる政治家がどれも、小市民的であり、その覚悟のなさに不安がよぎったものである。しかし、権力を果敢に行使し、官僚支配を打ち砕き、米国支配の日本の現状を次第に独立状態に近づける首相が登場するものとの期待は捨てきれなかった。

しかし、野田政権の登場はすべての期待を打ち砕くのに充分であった。そして、その背後で蠢く江田五月仙谷由人の暗い顔ぶれを見るにつけ、見切りをつけざるを得なかった。革命は必ず裏切られる、とりわけ「市民」=ブルジョアジー主体の運動はそうだ。フランス革命でさえそうだった。しかし、政治の革命的動揺は逆戻りできない何かをあとに残すものである。ところが、野田で終わった民主党政権は何も残さなかったのである。

かつて、1960年代の「新左翼」とよばれる学生・市民政治運動は、権力は手中にできなかったが、何かを残した。当時、「革命のロマンチシズム」は大きく花開いた。それは幼稚なものだったと卑下する気は全くない。しかし、何が残ったのか? この問いに、長い間苦しめられた。たぶん、それは「連合赤軍」による「血の粛清」事件に象徴されるような、政治活動の暗黒,癒えない挫折感などであったろう。つまり、道徳観の否定であり、マイナス価値を残したのだ。そして、それは革新サイドの20-30年近い長い停滞をもたらしたのであった。

多くの人にとって、1960年代の出来事は、忘れ去られるべき社会的出来事であったかもしれない。だが、他方で、かなりの人々にとって、それはためらいと模索のための「小休止」を強いた出来事でもあった。それはあまりにも長い「小休止」であったのだが。その間当然、時代、社会的「風向き」が大きく変わってゆくが、強いられた「小休止」は、決して無駄なものではなかったはずである。

民主党政権の崩壊は、「新左翼」運動と比べて何も残さなかったことが、明白となる。つまり、この反自民政権は全くの「夢かまぼろし」にすぎなかったようだ。これが現代の最大の悲劇なのだ。いったい、この悲劇をどう乗り越えていけばいいのか...  ためらいと模索のための「小休止」が必要なゆえんである。


■ 以下に天木直人の最近の論稿を引用しよう。同氏も現在「小休止」中である。

  権力を悪用して恥じない自民党と、権力の凄さにたじろいだ民主党


 きょう12月11日の産経新聞が大きく報じている。

 政府は10日、個人消費と地方経済のテコ入れのために地方自治体が自由に使える「地域生活支援交付金」を今年度の補正予算に2000億円計上する方針を固めたと。

 おなじくきょうの読売新聞が報じている。

 政府は消費税引き上げに伴う負担をやわらげるために低所得者に現金を配る「臨時福祉給付金」を支給する方針を、当初は14年度一回限りの予定だったが来年度も出す方針を固めたと。

 産経と読売を使いわけてスクープを書かせ、ただでさえ有利な選挙情勢にだめ押しする自民党のなせるわざだ。権力を最大限活用した選挙活動だ。

 これを公職選挙法違反だと批判する事は簡単だ。しかし、これが権力というものだ。戦後一貫して権力を握って来た自民党だから簡単にできる事だ。


 ひるがえって民主党はどうか。

 せっかく国民に選ばれて政権についた。あの時国民は自民党を見放し、あたらしい政治を望んだ。

 その国民の気持ちを真摯に受けとめて、民主党自民党を二度と政権に返り咲くことの出来ないように息の根を止めることは出来た。権力を持てば、覚悟を決めれば何でもできたのだ。

 情報公開を徹底し、返り血を浴びる覚悟で自民党の過去の犯罪的行為をすべて暴くことは出来た。

 沖縄密約ひとつをとってもそうだ。原発事故という未曾有の災いを転機として、自民党政権原発業界の癒着を白日の下に晒せばよかったのだ。そうすれば自民党の息の根が止められたのだ。

 私はそれを何度も民主党に進めた。

 しかし、民主党は権力の大きさにたじろぎ恐れた。

 それどころか、鳩山にしても菅にしても、夫婦そろってはしゃぎ過ぎた。三年間ものあいだ権力を握ったというのに、権力の威力を何ひとつ有効に使うことなく、いま民主党は惨めに消滅しようとしている。

 同情などする気はまったく起こらない。せっかく権力を与えられたのに、その権力を国民の為に使えなかった民主党に対する怒りがあらためてこみ上げてくるだけだ。

 安倍自民党と不破前議長まで出て来てはしゃぐ共産党だけが喜ぶ選挙など悪い冗談だろう。

 日本の政治はもう一度最初から叩き直さなくてはいけない。
(了)

天木直人メールマガジン2014年12月11日第1157号)



全体主義の起源」、「人間の条件」の著者 Hannah Arendt

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