米国の本音は大統領列伝の中に見えてくる


現在の米国大統領トランプは、ちょっと異色の人物だ。共和党の大統領としてはありがちな人物かもしれないが。外交政策に虚弱な体質しか持ち合わせない日本は、今のところ、戦略的な意味で、彼に依存していくしか方法がないように見える。早く自主独立しなければならないし、その覚悟を持たなければならないはずだが、「米国を知り、己を知れば、百戦危うからず」である。まず米国を知ることから始めよう。

近現代のアメリカの外国への振る舞い方の基本は、不思議とほとんど民主党の大統領のそれぞれの方針によって定着してきたように思われる。それらの中では、初代ジョージ・ワシントンウッドロー・ウィルソンフランクリン・ルーズベルトなどが出色で、重要な役を果たしている。彼らはいずれも民主党からの大統領である。

現代史の中では、公式の評価から見てウッドロー・ウィルソン(1913-1921)が大きな役割を果たした。彼は、写真からは伺いしれないが病身で、国際舞台で大きな役割を果たしたにもかかわらず、ちょっと押しの弱いところがあったようだ。いずれにせよ、彼は第一次世界大戦後の講和会議を「宣教師外交」と揶揄された彼流の平和主義でとり仕切り、世界で合衆国の地位をさしあたり不動のものにしたのだった。さらに米国そのものを国際金融資本の支配下に従属させた、世界の政治経済をグローバリズムの方向にいち早く舵を切らせた(馬渕睦夫)第一人者であったのだ。フランクリン・ルーズベルトの悪意に満ちた世界戦略も、ウイルソンを受け継いだものだった。

以下に引用する米国大統領に関する評論は、米国に対してかなりの辛口の評価をする高山正之のものである。残念だがウイルソンへのトータル評価を欠いている。




■ワシントン(1789-1797)

ジョージ・ワシントンは子供のころ庭の桜の木を斧で切り倒したというエピソードがメーソン・ウィームズ著の伝記にある。怒りをにじませる父に彼は正直に告白し、父もぶん殴るのを思いとどまって我が子を褒めた。正直はいいことだと。

しかし、これは作り話だった。そのころ米国には桜の木はなかった。著者がワシントンに欠けている正直さを補うために後から無理に付け加えたと一般に言われている。だいたい話しの舞台のバージニア州マウントバーノン辺りはあのアメリカ花水木が有名で、後に州花にも指定されている。こっちの木にしていれば嘘はばれずにすんだ。

ではワシントンはそんなに嘘つきなというと、正直な時もあった。市民軍の指揮官だった彼は手柄を立てて正規の英軍将校になるのが夢だった。

それでフランス軍オハイオに侵出してくると,勇躍出陣し、仏軍軍人を捕虜に取った。そこまでは良かったが、後に米国人になる市民軍の半分は英本国から流れてきた元囚人かその末裔だ。彼らは躊躇いなく仏軍捕虜を皆殺しにした。彼はその後、逆に仏軍に囚われ、十人虐殺の真相を質されると命惜しさから正直に殺害を実行した部下の名を告げ、許されて生還した。ただ、この正直さがたたって英軍は彼を正規士官に採用しなかった。

彼はそれを恨んで米国の独立運動に挺身する。

チンドラ・ボースも最初は英国のインド高等武官試験に受かって植民地インドの知事になるのが夢だった。ところが学科は通ったものの乗馬試験に落ち、彼はそれを逆恨みしてインド独立運動に転向した。ベトナムのゲン愛国ことホー・チミンも同じ。仏植民地官吏試験に落ちて、独立運動を始めるが、こういうのが植民地人の共通した発想なのだろうか。

さてワシントンは独立戦争になんとか勝ち、「すべての人間は生まれながらにして平等で、生命、自由、幸福を追求する不可侵の権利を持つ』と宣言して新しい国造りを始めた。ただ、その中にインディアンも黒人奴隷もはいっていなかった。

彼はマウントバーノンの農場に四百人の黒人奴隷を囲っていた。大統領になるとペンシルバニア州フィラデルフィアの大統領官邸に九人の黒人奴隷を連れてきて身の回りの世話をさせた。ところがこの州は黒人奴隷を認めない自由州で、六か月間続けてこの州に居住した奴隷は自由人になるという規則があった。ワシントンはそれで九人の奴隷が五か月間とどめるとマウントバーノンに送り返し、別の奴隷を官邸に連れてこさせた。

彼は黒人に自由を認めなかったが、インディアンには幸福の追及どころか生存することすら認めなかった。

彼らは白人に追われ、ずっと退却してきたが、モホーク族を中心に結束して白人に抵抗を始めた。ワシントンはそれが気に食わなった。彼は「インディアンを根絶やしにしろ、制圧するのではなく絶滅させるのだ」と命じた。戦士と戦場で勝敗を争っても絶滅させられない。それで戦場では戦わず、銃後の集落を皆殺しにし、そのタネを絶やす戦法がここから始まった。

それはその後の米国の戦い方の形になった。フィリピンの植民地化では抵抗するアギナルド軍一万八千人は相手にせず「彼らの家族二十万人を殺害」(米上院公聴会)した。ベトナム戦争のソンミの虐殺も同じ趣旨だ。対日戦争でも米国は太平洋の前線で待つ日本軍の頭上を越えて本土を攻撃し、広島に原爆を落とした。敵兵の妻子を殺すことに専念した。

世界はその残忍さが相手の戦意を阻喪させるのにいかに効果的かを知ったが、アルカイダを除いてどこもそのおぞましい米国式戦法を真似る気にはならなかった。

「9・11」の十周年でオバマは「戦場でもない、平和な市民生活を破壊したテロを忘れない』といった。その手法を生み、実行してきたのが米国だということも忘れないでほしい。
(2011年9月29日、「被害者ズラする米国が生んだテロ連鎖術」)

フランクリン・ルーズベルト(1933-1945)


フランクリン・ルーズベルトは類い稀な深謀遠慮のヒトだった。ただ根性が悪すぎて、後世に禍根しか残せなかった。

彼は日本に仕掛けた戦争の結果を見ずに終戦の四か月前に脳卒中で死んだ。墓は支那風で、それも彼の深慮からだった。祖父ウォーレン・デラミは中国に阿片を売って、そのカラ舟に苦力を詰め込んで財をなした。いわば支那人の膏血でルーズベルトはいい暮らしをしてきた。

それがあったので支那には最大級の好意を示し、墓のデザインも決めた。蒋介石宋美齢も大喜びしたが、それも彼の遠謀だった。蒋に日本と絶縁させ、白人国家の手先として日本に立ち向かわせた。

白人が黄色人種相手に血を流せるか。

蒋は言われるまま盧溝橋で日本軍を挑発し、通州で日本人居留民を虐殺し、さらに上海で大山中尉を殺して上海事変を起こした、日本は立って悪い支那を叩いた。これを待ってルーズベルトはシカゴで「日本は狂犬国家だから隔離しろ』と演説した。悪いのは日本で、支那は被害者だと。

南京が落ちるとニューヨーク・タイムズ記者とベイツら米人宣教師が「日本軍は南京市民三十万人を虐殺した」とデマを流した。それも大統領の差金だった。満州はその名の如く昔から満州人のものだが、ルーズベルトは「満州支那人のもの』と言い出し、蒋も「そうです。日本が侵略しました」と口裏を合わせた。米国はそれで日本に経済制裁を発動した。

彼の目論見通り真珠灣が攻撃されると、彼はもう日本の処理を考えていた。

ただ米国という国はインディアンを皆殺しにし、黒人奴隷を使い、彼の祖父は苦力でも受けた。ハワイは恫喝で乗っ取り、フィリッピンは独立を餌に武力で植民地にした。どこをとっても不道徳の極みが米国の姿だった。

対して日本は奴隷も残忍さもペテンもない。米国がいくら日本は狂犬だといっても説得力はなかった。それならでっち上げればいい。彼はカイロ会談を開いて「日本は朝鮮人を奴隷支配した」と言い出した。翌年8月、彼は再び「アジアの民は日本の奴隷になるのを望んでいない」と演説した。朝鮮は税を免除され、学校と鉄道を作ってもらい、初めて文化を知った。そのどこが奴隷だったのか。

しかし白人の発言が全てに勝る時代だったのだ。朝鮮人終戦後「あたかも奴隷解放後の黒人のように」(ヘレン・ミアーズ)傍若無人に振る舞いだしたのはその明らかな効果だった。

日本の占領政策にはもう一つ彼の遠謀があった。大政翼賛会のメンバーとして追放中の松本浩一郎が召し出され、日本に差別があった証左として徴用された。日本は「朝鮮人を奴隷にし、国内では激しい差別をし、南京やバターンで残忍さも披露した」米国より悪い国に仕立てられていった。だから米国は原爆を落とし、再び侵略を始めないよう軍隊を取り上げても構わないのだと日本人には刷り込んでいった。死せるルーズベルトが生ける日本の息の根を止めるような構図になるか。

ただ実際に日本に入ってきたのは奴隷を使いインディアンを殺してきた生の米国人だった。彼らは民家に押し入って女を漁り、金目のものを奪い、殺しもやった。調達庁の調べで占領期間中に二千五百人の日本人がそれで殺された。マッカーサーは彼らの犯罪報道を検閲で封じ、犯罪米兵の逮捕も裁判も認めない治外法権を強要した。

かくて十数万件の強姦と殺人は封じ込められた。表向き米軍犯罪がゼロだった占領時代をジョン・ダワーは朝日新聞に「マッカーサーのカリスマ性と米軍人のモラルの高さ」(2005年7月25日)と解説した。こんな嘘つき学者も珍しい。

米国はこの治外法権講和条約後も続けたいと日本政府に要求してきた。日本政府はやむを得ず呑んだ。それを示す公文書が見つかったと先日の朝日が報じた。この愚かな新聞は「密約だ」と非難したが、そうでなくてルーズベルトを含めた米国人の傲慢とたちの悪さを問題にするとろこだろう。(2011年9月15日 「米国人は大統領でも信用できない」)

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