砂塵とアルコール

アンデス西高地を旅するときの風物について


プーノ・アレキーパ・モケグア
 毎年二月の初めからほぼ1週間にわたって,ここプーノではビルヘン・デ・カンデラリアと呼ばれるカルナバルの祭りが催され,かなりの賑わいをみせる.プーノは,ボリビアとの国境に近いペルー南端に位置している県の中心町である.標高3,800mから4,000mの斜面に広がり,あのチチカカ湖の湖畔にある風光明媚な町である.昨年(1995)のこの時期も,例年通り,私はこの町に来ていた.それは,このプーノ県に位置する牧民集落で以前から続けている調査に又着手するためであった.

ところが,この度は出発前から体調が万全でないことが解っていた.というのは,正月から始めた雑誌論文の再調整が出発日の一月27日まで続いたからである.結局,リマに着いて最後の部分を仕上げる羽目になり,原稿は日本へ郵送することになった.リマ中央郵便局で原稿を発送し終え,ほっとして大統領官邸前のプラサ・デ・アルマス広場のベンチに腰掛け,これからの2ヶ月半近くにわたる調査の順序に思いを巡らしていた.多少の事前連絡は取ってはいるものの,なにぶん今度は泥縄である.体も1ヶ月近いデスクワークで鈍ってしまっている.このままで高地でのフィールドワークは大丈夫だろうかと,ふと不安がよぎった.しかし,今まで高山病にはあまり罹っていないこと,高地で病気らしいものにあまり罹っていないことなどから,気分は強気であった.

 いつも通りクスコに4,5日滞在して,空路でプーノに着いた.二,三月のアンデスは雨期にあたり,乾季とうって変わって緑も多く,さわやかである.気分も上々で,街に着くなり,知人を訪ねたり,調査地に入るための準備に奔走した.体の変調はなさそうであった.しかし,体調が万全でないことは,その夜判明したのだった.夜の1時頃,息苦しさで目が覚めた.頭も重い.風邪ひき気味の感じがする.しかし,これは明らかに高山病の予兆である.ごそごそ起き出して,コカ茶をいれる.その夜あまり寝付かれないまま朝を迎えた.こんな状態では,ここよりさらに高地の調査地にはとうてい行けそうになかった.

当時定宿にしていた「鉄道ホテル」の食堂で朝食を取りながら,どうやってこれから脱出すればいいか思案したが,いい考えは浮かばない.「高山病に罹ったようだが,どうすればよいだろう」と親しくしているウエイターの老人に聞いてみた.「コカ茶を飲んで,いつも以上に仕事をしろ」が,返答だった.そうかもしれないとも思ったが,一抹の不安は残る.結局,一度低地のアレキーパに降りて体調を整え,またここまで登ってくることにした.アレキーパにはどうしても逢っておかなければならない人物がいるので,それがこの小旅行を選ばせた理由でもある.アレキーパ,モケグアを旅して5日でまたプーノに戻ってくる予定を立てた.

 アレキーパは,海岸地方の砂漠のオアシスであるが,現在ペルー国内で2,3を争う大きな都市である.海抜は2,300m近くあり,暑くもなく気候は温暖,常春の町であり,ここにくるといつも気分がなごむ.何よりもまず「空気が濃い」,今回はこれが一番ありがたい.会いたい人物は,タクシーを使ってその住所を突き止めたが,長期の不在であった.隣人に聞いたところ,家族そろってボリビアのラパスにしばらく住むらしいとのことであった.結局この目的は果たせなかったが,高山病の兆候は消し飛んだので,まずは満足であった.さて,ここからモケグアまでは,バスで5,6時間の距離である.アスファルト舗装されたパンアメリカン・ハイウエイをバスはかっ飛ばす.隣席の人と雑談をした後,一眠りしてしばらくするとモケグアに到着した.

 モケグアは,標高はアレキーパより1,000m下ったところにあるが,ほぼ同じ気候区分帯に属するオアシスである.しかし,アレキーパと比べるとはるかに小さい田舎町である.実は私はこの町が大いに気に入っており,ここを訪れるのも10回は下らないはずだ.とはいっても,この町に人々を引きつける特別の魅力が備わっているわけではない.第一,アレキーパに近いとはいえ,交通の便がきわめて悪い.

僕も,もとより好んでここを最初に訪ねたわけではなかった.プーノ県にある私の調査地が,実は調査を開始してまもなくモケグア県に編入されたこと,村で進行していたダム建設のための国家プロジェクトがその事務所をここモケグアに設置したことなどのために,しばしばここに足を運ばなければならなくなったのがきっかけである.しかし,僕には,一年中花々が咲き乱れるこの鄙びた町が大好きである.ここの人々の顔の表情も気に入っている.僕にとって,ここを訪ねるルートは,今までほとんどがプーノ/モケグア・ルートであった.モケグアの町は気に入っているとはいえ,このルートがまた,難行苦行を強いる旅なのである.今回は,この同じルートを下から高地に戻ろうというわけである.荷物を常宿のホテルに置くと,さっそく翌早朝のプーノ行きのバス切符を買いに出かけた.


モケグアからプーノへの旅
 プーノ/モケグア・ルートは,乗り物に関しては近年格段の前進がある.というのは,アレキーパに本社を置くバス会社クルス・デル・スール社がこのルートに毎日運行するバス路線を開設したからである.以前は,週に2便の夜行バスしかなかった.夜間にプーナと呼ばれる高原を走るのは,いずれ解るようにとてもつらいものであった.

 翌朝,港町イロを出発したバスはモケグアに予定時刻の7時にほぼ着いた.大手の会社だけあって,ベンツの大型バスである.もちろん,相当に古い物である.これなら順調,快適な旅かと思われたが,出発してすぐに問題が起きた.我々を乗せたバスが,モケグアの町を抜けて山道を登り始めるとすぐ,車内にガソリンの強い臭いが充満して,エンジン音にも異常が生じた.バスはすぐもとの停留所に引き返えして,修理が始まった.2人の運転手と助手を含めて4人がかりで,ベンツのマークの付いたグリルを取り外し,さらに機械部分まで取り外し始めたのである.これはただ事ではなく,修理にかなりの時間がかかりそうである.乗客は外にでて,遠巻きにして修理の進行を眺めるよりほかにない.ついに,エンジンが取り外され,その解体が始まった.我々は半ばあきらめ顔で,三々五々,強い日差しを避けながら物陰に腰を下ろして待った.どのくらい待てばいいのか見当も付かない.もちろん,乗り換え便があろうはずもない.運転手は,修理に必要な部品(ゴム製のパッキング)が調達できないので,今日の出発は無理だろうとも言っていた.時間が経つにつれて,赤ん坊はむずかるし,のどが渇く.つきまとってくる地元の物売りの子どもから,僕はオレンジとアボガドを買って,それで乾きと飢えを癒す.午後に入って,明日の便まで待とうかと思った頃,修理は成功したのである.驚くべきことに,彼らは,厚紙を切ってその部品の代用にしたのである.再び我々を乗せて出発したのは,午後の3時過ぎであった.

 再出発して以降は,比較的順調な運行であった.トラタ谷を過ぎると,もう村らしい村はない.午後の日差しが強く照りつける禿げ山のあいだを縫って,バスはアンデス西斜面を登り続ける.もう何年も前になるが最初ここを通った時,私にはこの風景はとても異常に映った.谷あり,尾根ありで,地形は日本アルプスあたりの山岳地形とそれほど違わないにも関わらず,ここでは植生というものが全くないのである.草木の生えない岩肌だけの灰褐色の世界がどこまでも広がる.もちろん,仔細に見ると,枯れ色のサボテンが所々生えている.しかも,サボテンは高度差に応じて明らかに種類が異なり,その丈も登るにつれて段々低くなっていることが解る.ところで,バスは,プーナに至る斜面を八分目ほど登ったあたりで,遺棄されたアンデネス(段々畑)の中を通る.これは,インカ時代に建造されたものであり,クスコに属したものか,あるいはチチカカ湖沿岸の政治集団に属したものなのか明らかではない.このアンデネスの存在について報告されたのは,僕の知る限り,民博の藤井龍彦さんが最初だと思う.それは,もう15年も前のことであが,その後学術調査がここで行われたという噂さえ聞かない.プーナに登り切る直前の道沿いに,小さな茶屋がある.バスはそこで停車し,夕食ということになった.外は,すっかり夜の帳がおりていて,暗い.

 バスは,ヘッドライトに照らし出されるごつごつした大きな岩を避けるようにして,道なき道を縫うように進んでいき,ついに視界の開けた高原プーナにたどり着いた.月明かりの下に見慣れたプーナがそこにある.僕がかつて簡易高度計で測った数値が信頼できるとすれば,このあたりは標高4,400m近くある.普通に出発していれば,このプーナに入るあたりは正午頃通過するはずであった.エンジントラブルのおかげで,結局,夜のプーナの進行と相成ってしまった.夜行バスに乗り込むときは,通常,毛布を1枚準備するのだが,事故は予測出来なかっただけに,夜行の準備をしていなかった.疲れとプーナ特有の寒さが身にしみる.不用意なのは,もちろん僕だけではない.乗客はみんな無言であり,眼だけが暗闇の中で光っている.コカを噛み始めた老人,むづかる子をあやす母親の顔も不機嫌そうである.しばらく行くと,バスは幾つものスナ砂漠を通る.砂煙を巻き上げ,車輪を砂にとられながら,バスはゆるゆると進む.それに風が吹くと,あたりが白くかすんで方向さへ解らなくなる.車中も砂煙,土煙でもうもうとし始める.

かつて,アンデス地方年代記者インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベガは,インカ時代のこの近辺の風景を, チチカカ湖湖岸のデサグアデーロ方面から望んで,次のように記述したことがある.

「インカ王は...四人の野戦司令官の率いる一軍を西の方に派遣したが,その時司令官たちに,ハトウンプーナと呼ばれる砂漠を越え,その向こう側,すなわち砂漠から南の海にいたるまでの地域にすむ部族をインカに臣従させるように命じた....王からこうした訓令を受けた指揮官たちと一行は,...雪を頂いた山並みを越えたが,行軍はなま易しいものではなかった.また,ほぼ30レグワにもわたって人気のない荒野が広がっていたからである.」

『インカ皇統記』1.岩波書店.222-3頁


この中で「砂漠」と表現されている地形は,必ずしもスナ砂漠を指しているわけではないが,ここには,大きな寒暖差に起因した岩石の砂状化が進行して,現実にスナ砂漠が幾つも広がっていて,広大な荒野を形成している.両脇の山並みは,まわりと較べてさほど高くなく5,000m足らずであるが,ガルシラーソが述べているように頂は氷雪におおわれているのである.奇妙に思われるかもしれないが、氷河と砂漠の世界であり、「高所砂漠」と呼ばれる世界である。


旅の臭い 
さて,話を車中に戻そう.土あるいは微少な砂には臭いがある,といったら理解されるだろうか.それは,芳香とか悪臭といったジャンルの臭いではなく,また黴び臭さとも違う.しかし,それは鼻腔を微妙に刺激する或る種の「臭い」なのである.この土埃りの臭いが,今バスの中に充満している.咳込む乗客も何人かいる.特に,子供の咳はひどい.そうこうする内に,何人かの女が消毒用アルコールを脱脂綿に浸して,鼻で嗅ぎ始めた.それは,充満している砂塵のためではない,高度のためである.たぶん,低地の港町イロからの乗客であろう.高山病の兆候を紛らわすために,気付け薬の替わりにアルコールを用いているのである.プーナに登ると,インディオは普通コカの葉を噛む.それが高山病と寒さにどれほどの効き目があるのか必ずしもハッキリしないが(少なくとも僕自身にとってはこのコカの葉はまったく効き目を持たない),彼らは儀式でもあるかのようにコカを噛む.一方,メスチーソ又は白人系はといえば,コカの葉の替わりにアルコールをよく用いる.それは,この近辺だけの風習かもしれないが,いずれにせよ,僕にはこちらの方が即効性がありそうに見える.

 「砂塵とアルコール」,奇妙な取り合わせだが,このミックスした臭いを充満させたまま,深夜のバスはプーナの中をゆるゆると走る.僕にとって,このミックスした臭いは必ずしも不快なものではない.この臭いは,もちろん,現在の日本の生活では経験できないものである.まず,我々は日頃土の臭いを嗅いでいない.町の中で土の臭いを鼻にすることは,まずない.嗅ぐことがあるとすれば,花瓶,花壇,又は庭いじりの土からぐらいのものであろうが,これはアンデスの臭いとは違う.日本の土は黴び臭いのである.また,消毒用アルコールと言ったら,我々はすぐ病院を連想する。そのために,べつに日本に限ったことではないが,それは或る種不快な臭いに属するのではなかろうか.それに対して,アンデスのプーナで今漂っている「砂塵とアルコール」は,無限に乾燥し切ったものの臭いである.それは,アンデス山脈の西側を旅するときの風物のようなものであり,目にみえないにもかかわらず,アンデスを旅するときの実感を一番代弁しているもののように僕には思えるのである.

 さて,スナ砂漠を抜けると,バスは標高4,800m近くの分水嶺を越えて,チチカカ湖のあるアルテイプラーノ側を下っていく.峠を越えると,バスは速度を上げてひた走る.モケグアでエンジン故障を起こして,仮修理をしただけなのが嘘のようである.夜で人影のない牧民集落のいくつかを通り抜け,ボフェダルと呼ばれる湿地帯のいくつかを駆け抜ける.昼間だと,草をはむリャマ・アルパカの風景が広がるのだが,夜のため動物の影もない.このようにして,プーノの町にバスが着いたのは,結局,深夜の3時を過ぎていた.僕はといえば,高山病の兆候などとっくに忘れて旅を終えることが出来た.僕の例でも解るように,高山病の兆候を克服する重要な方法の一つに,きつい旅をして心身を鍛錬することを加えなければならない.出発する前に聞いた,老人の言葉が今思い出される.

09.1996 (学生雑誌に掲載)

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