核惨事を国際ジャーナリストはどう伝えたか?:Wilfred Burchett記者

シリーズ:福島被曝者に「被曝者手帳」を!(4)


■ はじめに、峠三吉の「原爆詩集」のこと
私は、小中学校時代を山口県山口市宮野地区で過ごした。仕事の都合上父の家がそこにあったからである。今となっては、当時の記憶はおぼろげになっていて、様々なシーンを時系列的に秩序だって思い出すことはできない。しかし、当時見た映画や演劇のうち、印象深く記憶に残っているものがいくつかある。その中に、「劇団はぐるま座」による上演劇がある。

はぐるま座」というのは、日本が占領政策から脱した1952年に下関に拠点をおき、主に共産党系の若者が中心になって、旗揚げした演劇集団であった。その結集の精神は、占領政策の時代に蔓延した植民地的風潮がはびこる中、その虚位と虚飾の演劇・文化とたたかい、平和で豊かな郷土の建設のために必死で生きている人々を真に励ますことの出来る演劇創造をめざし、「人民に奉仕し、人民と共に」を根本精神とする人民劇団たらんというものであった。今あらためて、その精神の高邁さに驚くとともに、その崇高さを思い知らされる。

この「はぐるま座」は、その精神の赴くままに、当時、ローカルであるとはいえエネルギッシュな演劇活動を展開した。県下にある各小学校や市町村を年に一度訪ね歩いて、小学校の講堂や公民館などで独自の演劇の公演会を開いていた。だから、山口県下の当時の小学生はほとんどこれを見ているはずである。私は、3-4回その公演を見た記憶がある。

その公演の中に、峠三吉の「原爆詩集」を題材にした詩劇を見た記憶がある。それは、次の有名な詩句によって成り立っているものだ。

ちちをかえせ ははをかえせ 
としよりをかえせ 
こどもをかえせ
わたしをかえせ 
わたしにつながる にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり 
くずれぬへいわを 
へいわをかえせ 

ここには、原爆投下という非人間的攻撃にたいする一個人の直截の感情表現を読み取ることができるし、そこには激しい怒りが吐露されている。しかし、ここに抗議の気持ちを読み取ることができるだろうか? それは、誰の誰に対する抗議なのか? その点ははっきり言って曖昧である。したがって、政治的な見方からすれば、抗議の対象が不徹底だなどとうマイナス点を指摘することもできよう。しかし、ここではそうゆう思慮より反戦反核の激情のほうがはるかに勝っている。今日の、福島原発事故による強制避難民の怒りの気持ちとも一脈通じるものがあると思われる。強いて言えば、「過ちは繰り返しません…」などという、意味不明な自虐的思考がここにはないのが救いである。この自虐的な表明はどう考えても、官製の物言いだろうし、問題なのは多くの人がこの表明に慣らされてきたことである。

峠三吉に危険性を本能的に嗅ぎとったのは、GHQだった。峠三吉の作品はことごとく発禁処分にされたのだった。地下出版はいくつかあったらしいが、確認するすべはない。現実に彼の詩が世に出たのは、占領政策が終了した後のことである。当時、小学校に入るかはいらないかの年頃であった私は、これらの経緯は全くわからなかった。ただ、その上演劇でのその旋律と言葉だけは深く印象に残ったようだ。後になって知ったのだが、峠三吉の詩は1950年代の反核運動の一つのシンボルになったのであった。


 Wilfred Burchett記者の果たしたこと

峠三吉は、人間の尊厳に立ち、国内から怒りの表明であった。その後様々な原爆反対運動の政治の中でもまれ、傷ついていった経緯があるが、彼の、敗戦国日本の国民という立場を超えた人間という立場からの告発は多くの感動を呼び、長く影響力を持ち得た。
次に、外国の報道記者の日本の惨劇の告発の様子を取り上げてみよう。彼らが、いかに日本の二大核惨劇の現実を世界に発信し、それがどのような反響巻き起こしたかを読み取ってみたい。

一人は、1945年の原爆投下後、外国記者として初めて広島・長崎の現場を取材したWilfred Burchett記者である、あと一人は2011年3.11当時から今日に至るまで福島に密着して、日本人に染み付いている「原子力ムラ」根性を告発し続けているJohannes Hano記者である(これは次回以降にまわす)。両者とも、出発はフリーランスの記者としてであった点が共通している。その後大きな影響力を持ち得た活動的報道人たり得たことを考えるにつけ、その点が注目に値する。

 
■ W. Burchett記者
第二次大戦当時、「白豪主義」を国是としていたオーストラリアは、日本から攻撃を受けたことに対して厳しい報復の態度を取り続けていた。それを、如実に示すのもが極東軍事裁判でのオーストラリア判事の態度であった。W. Burchett記者はこの国で生まれている。しかし、彼は生粋の新聞人あるいは組織人ではなく、かつて旅行代理店で仕事をしていた人物であった。むしろフリーの戦場記者あるいは冒険家というのがあたっていて、ジャーナリストの活動もフリーランスとしての活動であった。

1940年、ジャーナリストとしての活動を開始。フリージャーナリストとして、ヴィシー政権下で起こった仏領ニューカレドニアでの反乱のリポートが、ロンドンの『デーリー・エクスプレス』紙に掲載される。第二次世界大戦中は、ビルマや中国で報道活動に従事する。また、太平洋戦争でのアメリカ軍の反攻も、リポートしている。しかし、彼がジャーナリストとして本領を発揮し始めるのは、対日戦争の取材からである。連合国の同行記者として行動を開始したが、彼は決してオーストラリアの国是、または連合国の反日思想に縛られるものではなかった。

バーチェット記者が広島への原爆投下を聞いたのは沖縄だった。米軍の簡易食堂に並んでハンバーガーの支給を待っている時、ラジオが興奮した口調で新型爆弾の投下を告げていた。将校から原子爆弾であると聞かされた瞬間、彼は「日本に狙いを定めるなら、これが最初の標的になると心に刻んだ」(自著、広島TODAY)。 日本の敗戦、その後の混乱と空白が続く中、30日未満で、彼は早くも広島の地に立っていたのである。他の連合国サイドの記者たちが、戦勝気分の中で戦艦ミズーリでの降伏文書調印式に飛び回っていた9月2日、彼は、広島行きの列車の中にいた。満員の日本軍の客車に囲まれ、敵意丸出しの視線に耐えながらも、夕方広島に到着した。そこで、彼は日本の官憲に逮捕され、留置所に一泊することになる。取材協力者とおち会ったのは、翌朝であった。

彼は、報道規制を忠実に実行していた旧日本帝国官憲(占領軍はまだ到着していなかった)の妨害をなんとか、かいぐって、9月3日朝には市内に入り、取材を開始する。特定の見方から自由な彼の現場主義に徹した眼に写ったものは、焼け野原の中の悲惨な人間の姿であった。死臭の漂う市内。魂を失って幽霊さながらに行き交う人々。そのうち彼は、立ち寄った広島逓信病院で信じ難い話を聞いた。 「遺骨を探すため市内に入っただけで原爆症になる者があり、重症者は死んでゆくのです」と。 川には白い腹を見せた魚が浮いている。死体を焼く煙があちこちに見える。がれきの中に腰を下ろし、彼は持参したタイプライターを叩き始めた。

30th Day in Hiroshima: Those who escaped begin to die, victims of
THE ATOMIC PLAGUE
I write this as a Warning to the World
DOCTORS FALL AS THEY WORK
Poison gas fear: All wear masks
 
30日後の広島―無傷だった人さえもが死んでゆく。彼らは「原爆病」の犠牲者だ。
私は世界への警告としてこれを書く。
医師たちは治療しながら倒れていく。
毒ガスの恐怖―全員がマスクを着用。

 1945年9月5日、こんな書き出しの記事が英紙デイリー・エクスプレスの一面を飾った。発信人はW. Burchett記者。連合国側の記者として初めて広島の地を踏み、放射能の恐怖を明らかにした大スクープだった。 もちろんその反響は大きかった。

欧米の宗教家や科学者らが、原爆投下直後から、すでに、「原爆は非人道的」であるという非難の声を上げていた。新聞サンフランシスコ・クロニクルには、「われわれには他人を戦争犯罪人と呼ぶ資格がなくなりました」という投書も幾つか寄せられた。しかし、これらの非難は、多数派でないばかりか、個人個人の倫理観に基づく想像上のものでしかなかった。バーチェット記者の現場からの報道で初めて、これらの非難が正当であることが裏付けられたのだった。かくして、原爆非難の声は、無視できないものとなったのである。

■ W. Burchett記事の直後の反響:GHQによるもみ消し工作
また、バーチェット記者の広島第1報は、「原爆を国際管理せよ」という声の高まりを懸念する軍部を刺激したことは間違いない。また、UP通信も9月5日に放射能による死者が続発している事実を配信するに及び、GHQは「9月6日現在、原爆障害で苦しんでいる者は皆無」とのファーレル声明を出した。

トーマス・ファーレル准将は、原爆製造のマンハッタン計画の中で放射線の人体影響の研究を担当しており、わずかな放射性微粒子の肺への蓄積も致命的な影響があることを承知していた。更に、かれは、テニアン島で日本への原爆投下の任務を担ったグループの一員でもあり、ナガサキに投下した原爆fat-manに"To Hirohito, with love and kisses, T. F. Farrell” とサインをした人物であった。そのファーレルは、W. Burchett記者のヒロシマ第一報の配信とその反響を見て、その否定会見を、9月12日東京のホテルで開いた。W. Burchett記者は、取材中の京都から駆けつけたが、会見には遅刻してしまった。

「広島・長崎では、死ぬべき者は死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能で苦しんでいる者は皆無だ」
という声明を彼は発表した。バーチェット記者が、広島の現状とまったく違うと反論するとファーレルは、
「残留放射能の危険を取り除くために、相当の高度で爆発させたため、広島には原爆放射能が存在し得ず、もし、いま現に亡くなっている者があるとすれば、それは残留放射能によるものではなく、原爆投下時に受けた被害のため以外あり得ない」
と事実を否定する回答をした。


右の人物がトーマス・ファーレル准将。

ファーレルのこの物言いには、今から見ると驚かされる。確かに、GHQの権力を傘にきた戦勝国米国の軍人の言葉である。W. Burchett記者とは、その立ち位置が全く違う。ここには、国家体制の中で自由に動けない軍の高官と、事実に基づく取材をもとに体制そのものに異議を唱えようとするジャーナリストの戦いという構図があるが、それは極めて健全な対抗関係だといえよう。

私が注目するのは、その点ではない。ファーレル声明が、福島事故直後の日本政府(菅直人政権)の釈明と酷似している点だ。不都合な事実を小さく見せ、影響を否定するための理屈が、全く付け焼刃的弁解にすぎないという点である。米軍は、原爆投下を完全にコントロールしていたとはいえない。その技術的失敗、例えば広島では爆弾に搭載したウランの半分近くが核分裂を起こさず,爆発と同時に上空で飛散した、という事実も指摘されている。だから、「残留放射能の危険を取り除くために、相当の高度で爆発させた」というファーレルの釈明は、仮にその意図が作戦に組み込まれていたとしても、その通りコントロール出来たとは到底言えないだろう。しかし当時、軍関係者以外の者には、このような釈明で黙らせることができたのだろう。

今日、福島原発事故ではどんな「釈明」がなされただろうか。「高い数値だが、直ちに人体に影響を与えるほどではない…」、「福島では誰一人死んでいない!」。はっきり言って、誰もがその無内容さを直感した。しかし、これにはっきりと異議を唱えた者当時はほとんどいなかった。私の知る限り、小出裕章助教京都大学)、武田邦彦教授(中京大学)を除いて、事故直後もその後も正面切った反論したものはない。3.11直後の枝野官房長官の会見は、トーマス・ファーレル准将の釈明会見と、どこかダブって見えるのである。

ヒロシマと福島とで違いがあるとすると、3.11直後の福島には、W. Burchett記者に匹敵する国内外のジャーナリストがその場にいなかったことが大きい。それどころか、事故直後福島取材に馳せ参じた多くのジャーナリスト達は、住民に構わず、福島を逃げ出していったのであった。ドイツZDFのJohannes Hano記者の果敢で執拗な報道活動も、初動はかなり遅れた。原爆の爆心地に馳せ参じたW. Burchett記者と現代のジャーナリストの覚悟の違いをまざまざと思い知らされる。

話をヒロシマに戻そう。ニューヨーク・タイムズ紙は、W・L・ローレンス記者の「広島の廃虚に放射能なし」という記事を掲載し、バーチェットを左翼の扇動者として非難したのだった。 実は、ローレンス(あるいは彼のグループ)はバーチェット記者に数時間遅れて9月3日、軍用機で広島に入っている。しかし、彼の関心は原爆の威力に絞られており、市民や病院を取材することはなかった。ところで、W・L・ローレンスなる人物は、実に胡散臭い人物であった。かれは、ロス・アラモスでの原爆実験を唯一目撃した科学記者ということになっているが、極めて偏った原爆礼賛者であった。後に、『0の暁』と題する本を書いてその原爆礼賛を宣伝したのである。ところが、この目論見は一定の功を奏して、その後、「世界連邦」という運動、具体的には湯川秀樹バートランド・ラッセルアルバート・アインシュタインらの世界統一連邦政府構想を立ち上げに、協力した。W・L・ローレンスは、米国金融資本と結びついて、この運動に少なからぬ資金援助を行ったと言われている。

苦しむ者の現場に視線を定めるバーチェット記者と、抽象的なコスモポリタン主義を唱うローレンス記者とでは、立ち位置が全く違っていたといえるだろう。また、1955年になって鋭くかつ高邁な"Russell-Einstein Manifesto"を発表した上記の科学者グループの現実主義ヒューマニズムと、ローレンスの意図とは、これまた異なっていて当たり前であった。


■ GHQの一時的勝利
 結局、バーチェット記者の現地第1報は、核兵器が持つ残虐性の核心をついた優れたルポであるが故に、国際政治の黒い潮に巻き込まれ、また、戦争終結直後の平和到来という人々の歓喜の中でかき消される。しかし、彼が行った現場主義に立脚した取材とその真実の報道は、長く海外での反原爆運動の否定し得ない基盤を築いたのだった。

それから一ヶ月後、同年10月3日から7日にかけて広島・長崎で線量測定調査がおこなわれた。その結果、ファーレル准将は「広島と長崎に測定可能な放射能なし」と、GHQマッカーサー司令官とトルーマン大統領に報告書を提供した。これは、明らかに結果ありきの調査であった。しかし、これが米国の公式見解となっていった。

そして、 占領下にあった日本政府は、このファーレル・メモを認めることになり、自国民の悲惨を極めた原爆症患者の救済の手足を自ら縛ることになったのである。つまり、これは「広島と長崎には原爆患者はいない」との宣言を日本政府がしたことを意味する。そうゆう中で、スイスの国際赤十字が日本の原爆患者に薬を与えようとするのを日本赤十字社が拒否する事態が生まれたのであった。これは、まさに今日の福島で起こった事件と同根である。福島では放射性ヨウ素の飛散はないことを理由に、被災民とその子どもたちに対して防護用ヨウ素剤の配布が行われなかった。放射性ヨウ素の飛散のデータがないと言われていたが、調査資料がないはずはないのである。これは、被曝による甲状腺ガン、とりわけ小児甲状腺がんの拡大の可能性を覆い隠そうとして、行政並びに医療機関が虚偽情報を流したという犯罪的行為であった。彼らは、事実を知っていたか、明らかに予感していたのであって、防護用ヨウ素剤を自分たちだけで服用していたのである。この事件の結末には、まだ決着がついていない。未だ進行中の懸案であり、将来もっと大きな問題に発展する可能性を秘めている。
(「中国新聞・検証ヒロシマ」を一部利用)


■ W. Burchett記事のその後の反響
W. Burchett記者の日本での活動は、1945年9月で終わる。10月頃にはドイツ渡り、ヨーロッパの戦後の政治社会状況の取材に力点を移した。また、1950年台から1960年台にかけて朝鮮戦争ベトナム戦争の取材に没頭することになる。しかし、彼は自著で述べているように、ジャーナリストとしての彼にとって「ヒロシマはすべての原点であった」のである。

W. Burchett記者の記事が現れた翌年(1946)から1948年は、「戦争犯罪者の処罰」という名の極東国際軍事裁判の話題で持ちきりであった。その中で、インド人のラダ・ビノード・パール判事と米国人軍人であり日本人戦犯の弁護をかって出たベン・ブルース・ブレイクニー弁護人の発言が異彩を放っている。

極東国際軍事裁判東京裁判)において連合国側はニュルンベルク裁判と東京裁判との統一性を求めていたが、ラダ・ビノード・パール判事(インド人)は、日本軍による残虐な行為の事例が「ヨーロッパ枢軸の重大な戦争犯罪人の裁判において、証拠によりて立証されたと判決されたところのそれとは、まったく異なった立脚点に立っている」と、戦争犯罪人がそれぞれの司令を下したとニュルンベルク裁判で認定されたナチス・ドイツの事例との重要な違いを指摘したうえで、「(米国の)原爆使用を決定した政策こそがホロコーストに唯一比例する行為」と論じ、米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであるとした。

同趣旨の弁論は他の弁護士によってもなされ、ベン・ブルース・ブレイクニー弁護人(米軍人弁護士)は1946年5月14日の弁護側反証段階の冒頭で、アメリカの原子爆弾投下問題をとりあげ、「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下した者の名(ポール・ティベッツ)を挙げることができる。投下を計画した参謀長(カール・スパーツ)の名も承知している。その国の元首の名前も承知している。彼らは、殺人罪を意識していたか?してはいまい。我々もそう思う。それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。何の罪科でいかなる証拠で戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる。この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認したものがいる。その者達が裁いているのだ。彼らも殺人者ではないか」と発言した。(wikipedia [極東国際軍事裁判]から一部引用)

両氏の発言は、勝者の連合国がセットした裁判という、四面楚歌の環境の中で行われた。しばしば、裁判の速記録すら故意に停止されるという妨害すらあっての中である。それぞれが、それぞれの良心に基づいて陳述したとはいえ、その背後で彼らの背中を押したのは、やはりW. Burchett記者の事実に基づく真実の報道であったろう。真実の報道の力を思い知るのである。

W. Burchett記者が与えた影響力は上に述べた2つの事例だけではもちろんない。戦争直後のそれぞれの地域で取り組まなければならない大きな課題、さらに始まりつつあった米ソを始めとした原爆開発競争などの背後で、人々は人類史的な危機の時代に突入しつつあることに内心気付き始めていた。そのきっかけは,やはりW. Burchett記者が書いたヒロシマ第一報であったのではないか。これは彼自身の言葉ではないが、 “NO MORE HIROSHIMA”というスローガンが生まれ、その言葉で代表される世界的反核意識が芽生えつつあった。

■ W. Burchett記事は、日本国民にどのような影響を与え得たか
ところが、日本国内は、占領下にあり、彼のヒロシマの警告記事は広まったわけはなかった。GHQによって原爆に関する報道規制が強化され、日本国民にこの記事が知らされることはなかった。占領下にあっては、日本政府の動きも主権者たるGHQの指示通りにしか進むことはできなかった。そして、多くのインテリ層が、GHQが出した「プレス・コード」の実行部隊として、主に検閲作業に駆り出されていったのである。このような状況下では、国民は、広島,長崎の惨事に思いを馳せる糸口もなければ、またその余裕もなかったのである。原子爆弾が世間で話題になったのは、占領期の末期、朝鮮戦争で原爆使用が報道された時であった。朝鮮半島といえば、かつては日本の国土であったとはいえ、やはり外の地のことであった。

1954年に、ある突発的な出来事をきっかけに、日本の国内で市民運動原水禁署名運動」沸き起こった。そしてそれは、「世界平和運動」へと発展していく。この時期になって、反核というテーマではじめて世界世論と国内運動が隔たりを取り除くことができたのである。その時、W. Burchett記者は国内の市民レベルで再評価されたのであった。1950年代の日本国内での原爆報道は、「死の灰」の恐怖という言葉で多くは語られる。それは、第五福竜丸事件がきっかけであったのである。もちろん、この事件以前でも、先駆的な試みがあったが、その時期はまだ、広島原爆の実情も、Burchett記者の記事のことも、報道の表には出なかったのである。

結局、W. Burchett記者は、西洋人の良心に基づいGHQ と戦ったのであって、国内にいた被爆者に、人道的立場からの支援の声を送ったとはいえ、効力のある支援を与えたわけではなかった。日本人には、まだ、一外国人ジャーナリストの言動を受け取とれるだけの余裕も組織もなかったというのが、実情であった。しかし、W. Burchett記者は、日本人か関与できなかった国際世論の舞台で、確実に人類の「知」に貴重な「反核」という種を蒔いたのであった。この「知」は、ヒューマニズムを中心に据えたコスモポリタニズムに立脚している。これは、すでに見た世界的な科学者グループによる「現実主義ヒューマニズム」とも方向を異ことにするのである。






ヒロシマを再訪したW. Burchett氏


■ W. Burchett氏(1911-1983)過去を振り返る
The Outsiders: Wilfred Burchett
http://johnpilger.com/videos/the-outsiders-wilfred-burchett
http://vimeo.com/16725262


■主要参考文献

繁沢 敦子(広島大学)さんの「歪められた原爆報道─占領期における連合国側記者の活動を中心に─」(pdf)が大いに参考になったことを付け加えておきます。このpdf文書は下記で閲覧できます。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/hua/public/mitsubishi/mitsubishi02.pdf

中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターの「検証ヒロシマ」ページ
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20120203140353690_ja

"Voice and Silence in the First Nuclear War: Wilfred Burchett and Hiroshima"
By Richard Tanter (August 11, 2005)
http://japanfocus.org/-Richard-Tanter/2066


追記:
本ブログの後半部分を多少書き直しました。(6月2日,7/26)


                                                        • -





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