遺棄された街: 音のない世界に風の音だけが聞こえる

福島・帰宅困難地区への一時帰宅同行記

2014年5月4日(土)、福島県大熊町の住民で現在、会津若松市仮設住宅で暮らしておられる木幡夫妻が墓参りで大熊町へ一時帰宅された。お二人のご好意により、私は、それに同行することができた。その際に撮った写真の一部をここに載せます。


■ 中屋敷スクリーニング場で「防護服」に着替える


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私達は、木幡夫妻とJR郡山駅で早朝おちあい、夫妻の車で「帰還困難区域」に指定されている大熊町へ向かった。福島第一原子力発電所は、海岸線に位置し、行政区分では双葉郡のうち双葉町大熊町の両方にまたがる。福島市二本松市郡山市のある「中通り」地区から海岸線沿いの「浜通り」地区へは、あまり高くはない山岳地である阿武隈高地を越えなければならない。
阿武隈高地に差し掛かったところに三春町がある。大きな町だ。現在、この町の住民はほとんどここで暮らしているようだ、車の往来も多い。原発事故関連の事務所やNGO関連の事務所など、その最前線基地が、ここに多く見かけられる。なぜなら、三春町は、原発の爆発当時から現在に至るまで放射線量が比較的低い場所だからである。それは、次のような理由による。爆発による放射線降下物は、海岸線の風の向きに沿って、北または南方向へ飛散していった。それとは別に、継続的な放射性物質の拡散があり、これは阿武隈高地の嶺方向に多くは飛んていったようだ。其の際、風は峰によって上空に吹上られ、三春町を通り越して、風が郡山方向に向かったからだといわれている。
さらに田村市を通過して、峠に向かう。峠近辺の山並には、時節がら、山桜がたくさん咲いていて、自然はいつも美しいという感慨に浸った。双葉町大熊町も桜がきれいな土地柄だという。ここで自然とは植物相のことに違いない。いくら自然が変わらず美しくても、人間を含めた動物は、今、放射能の恐怖に怯えているのだ。やはり、放射能は「目に見えない悪魔」なのだ。
峠を越えると、原発のある海岸線まで下り路だ。越えるとすぐに、「中屋敷スクリーニング場」はあった。車は停止され、狭い山道の路肩に引き入れられる。ここで、一時帰宅の通行許可書(町長発行のもの)を提示し、「防護服」なるものに着替えることになる。ここでそれは無料で支給されるのだ。更に、個人個人に積算線量計が配られ、高感度の空間線量計ウクライナ製のPOLIMASTER)が一台貸与される。


■ 春のうららの一時帰宅と墓参り


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暑くも寒くもない、いい気候の時期であった。私達が向かった木幡家は、大熊町市街地からかなり離れた野上地区という所にあり、スクリーニング場からしばらく下った山間地に比較的近い。いい造りの家で、地震による被害は全く無いようだった。家の前庭の木々はいつもの様に生い茂って、家の主人を待ち受けているようだった。この一時帰宅も、長い旅からの帰宅という風情であった。もし「防護服」に我々がくるまれていなければ、そう見えてもおかしくなかったであろう。
ただし、家の中は乱雑のままである。それも当然だろう。家の中を整理整頓をして、避難生活に入ったわけではない。避難そのものが、本当に一時的だったに違いない。しかし、「一時的」が「半永久的」になっているのが現状である。その間、動物が闖入し、家の中を荒らす。野生動物のイノシシ、猿などが進入する。さらに「人間」という動物も入り込んでくる。この種の生き物とは、どろぼう集団、原発作業員といったところか。
私達は、行く先々で、各自が持参した線量計、ならびに貸与されたPOLIMASTERで、空間線量を測った。たしかに、線量は高い。どこでも、おおよそ2-5μSb/hが観測できる。これは、法定許容範囲の年間1mSbと同値の0.1μSb/hを標準限度値とすると、その20-50倍である。
更に、放射性降下物が集積するホットスポットでは、線量は10-15μSb/hを記録する。これは、標準限度値の100倍以上である。さらに、町役場の資料によれば、現在もホットスポットの最高値は70μSb/h(標準限度値の700倍)である。(注) この事は、事故直後の空間線量が、瞬間値で1,000μSb/hあったという実測値データの信ぴょう性を裏打ちしているようだ。このデータは、広河隆一氏とJVJA記者が3号機の爆発当日、双葉町の現場に入り計測した値である。当時、大手マスコミ記者が現場を逃げ出すなか、かなりの住民と果敢なフリーランス・ジャーナリスは現場に居つづけたのであった。

(注) より厳密に云うと、2012.09 - 2014.3 の間で、平均値 71-51 μSb/hを計測。資料は、大熊町役場会津若松出張所・環境対策課の責任制作による「大熊町内空間線量率測定結果 平成26年3月24・25日測定」のスポットno.64の値です。

いずれにせよ、放射性降下物の除染作業と自然の飛散・流失によって、空間線量水準は下がってきているのは確かなようだが、この線量が安心というわけでは決してない。さらに、これらの放射線希釈化作業には多くの問題があり、除染の効果と線量の減少率は減じつつある。というのは、山間地の希釈化はほぼ手付かずであるばかりでなく、そこの線量すら計測すらされていないのである。多くの現象から考えて、山間地の線量は驚くほどの高レベルであるに違いなく、それが平野部に拡散して来ているのである。とりわけ、1-2号機からの放射性物質の飛散の通り道にあった地域の山間地は恐るべき数値であるはずだ。
ところで、私たちの主目的である墓参りは、どことなく味気なかった。墓石には花を備えたものの、ろうそくも線香もないのである。これらを持参はしたのだが、火を使うことが禁止されているからである。

一段落して、ふと気づいたのだが、ここには、音がない。とても静かなのである。人間の声、車の音、犬猫の鳴き声、鳥の声、さらには昆虫の羽音すらない。明るい日差しの中、音の真空地帯...  ただ、かすかに吹く風が、耳をかすめていくのに驚く。
そういえば、事故後1年以内の頃は、無人の街を家畜の牛、さらにダチョウが自由に闊歩している映像をよく見た。それら動物は、今どこに行ってしまったのだろうか。「殺処分」という言葉が脳裏にチラつく。なんという人間の身勝手さだろう。かわいそうにという気持ちより、そうゆう動物の怨念を強く感じる。必ずや、人間はその代償を払わされるに違いない。



■ 大熊町市街地へ


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私達は、木幡宅を後にして、大熊町の中心部へ向かった。個人的な希望は、破壊された原子力発電所の敷地そばまで行きたかったのであるが、各所で阻止線が張り巡らされていてそこまで侵入できないことがわかった。
其の阻止線を張り巡らしているのが、「原子力災害現地対策本部」なのだが、これは法令に基づいて事故当時内閣府に設置された同名の本部が、その総元締めになっている。その現地対策本部は、全国を見回しても福島県にしかなく、現在福島県庁の「福島県原子力災害対策センター」のなかにある。この現地対策本部が動員している要員は様々だ。全国から集められた警察官、多分対策本部が雇用しているガードマン(ALSOK)、さらに東京電力原発従事者(雇用関係は複雑)などだ。「スクリーニング場」の関係者は、東京電力からの派遣要員らしい。
町内にはいろいろなところに線量計が設置してある。福島県内は主だったところに線量計が設置してある。会津若松でさえ目立つところに設置してあるほどだ。さすが、原発立地県なのだと思われるが、原発そのものの周辺町村では、その数は当然多い。
大熊町役場にいってみた。不似合いなほど大きな庁舎だ。何もかも、手入れが行き届いていて、放射線量も比較的低い。除染作業を繰り返したらしい。何のために? 住民の多くがまた帰宅でき、そして会津若松の仮庁舎がここに戻ってくる、その時のために、手入れをしているのだろうか? もしそうだとすると、それは常軌を逸した行動だし、予算の無駄遣いだろう。どう考えても、事故を起こした原発の隣接町村である大熊町双葉町では、住民が帰宅可能になるとは思えない。チェルノブイリ事故の経験を全く無視しているのだろうか。しかし、同じ町内住民の間にすらある除染推進派と除染批判派の対立は、根深い政治力学は絡んでいて、現状ではどうすることもできない状態だ。
街なかに立つ大型看板の「地球にやさしいエネルギー原子力」というメッセージが虚しい。双葉町にも似たような看板がある。福島県民はこんなことを本当に信じていたのか、と批判するのはたやすい。東京の人間だって、いや日本国民の大多数がそう思いたがっていたのではないだろうか。


■ JR常磐線大野駅」にて


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次に私達が向かったのは大野駅だった。その途中、現職町長である渡辺利綱氏の実家の前を通る。ひと目でその実家が大熊町の大地主であることが見て取れた。実はこの点に、原発事故後の今日においても引きずり続ける住民相互の対立構造の根が潜んでいるのである。駅に近い商店街は、地震の影響がかなり認められる。倒壊した家、商店がそのままになっている。やはり、家の作りは農家の方がしっかりしているようだ。
大熊町には、JR常磐線の利用可能駅が2つある。富岡町寄りの夜の森駅(富岡に所属)と、大熊町の中心にあって原発に最も近い駅、大野駅とである。大野駅前で空間線量を測った。高い、5 μSb/hをはるかに超えている。ここは、放射性降下物が風に乗って原発から双葉町浪江町飯舘村に向かった時、その通路にあたったとのことだ。そういえば、70μSb/hあるホットスポットもここから遠くないところにあるはずだ。それを知ってどことなく、腰が落ち着かなくなる。長居はできないぞ!
無人の駅舎に入る。あまり壊れてはいなかった。この近辺は津波の破壊は及ばなかった。地震による破損はそのままで、原発事故直後から無人となった様子が見える。「常磐線は復旧の見通しがたっていません」という告知の紙が3年前の3.11からそのままになっていた。プラットフォームも3年前から手付かずの様子だ。駅の外の自転車置き場に取り残された自転車が数台ある、ツタが絡まりついていた。
駅の構内の伝言板に、チョークによる走り書きが残されている。もう白いチョークが消えかかっているが読める。「大能(熊)に必ず戻る」、「みんなで帰る」と。誰がいつ書いたのだろうか? 事故直後の慌ただしい避難の途中にか、しばらく経って一時帰宅した者がここにやってきて書きつけたのだろうか。ともかく、その情念だけは伝わってくる。これは、たぶん、ここの住民が口にできる唯一の「正論」なのであり、何があっても変更できない強固な空気なのだと読み取った。しかし、仮設住宅の避難住民と話し合って見た限りでは、私は、これが多数派の意見だとは思わない。多くの住民は、もっと理性的に現状を把握して取るべき態度を決めている。ここは、もはや人間が住める土地ではない、少なくとも30年は….。多くの住民はそう考えていると思う。
ここでもまた、動くものの姿は全く見受けられなかった。音の真空地帯は、続く。



■ 3年放置され変わり果てた水田


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この広い野原を見て、大熊町は畑作中心の農業を営んでいたと思った。しかし違った、ここはすべて水田地帯だったという。ちょっと信じられない。水田も遺棄されると完全な野原に戻ってしまうのだ、と解った。田んぼの中では、ススキ、外来種の背高泡立草、さらには灌木などが栄養が豊富なせいでよく育っている。なかでも、背高泡立草は秋口には人間の背丈よりはるか高くなるようだ。もはや元の水田に戻すのは不可能に近いのではないか。多分、この地でそのような努力を現実にする住民が出てくるとも思えない。
除染で確かに畑地、市街地の線量は低下した。其の除染の置き土産が、うずたかく積まれた汚染土の山だ。汚染土は、ビニール袋に詰められただけで、多くは野ざらしになっている。そろそろビニールの強度も限界に来ているという。だから、その汚染土の新たな「仮置き場」の創設が議論され、その場所選定と仮置き場の所有関係が話題になっているのだ。
自爆し破壊に至った原子力発電所の内部では、汚染水処理をめぐって後手後手の対処療法が繰り広げられている。「原発は完全なコントロール下にある」状態などから程遠く、いつまでたっても安定しない。旧発電所の外の居住空間・生活空間の汚染土処理も、後手後手の対処療法が繰り広げられているだけだ。ここが、人間のための空間として復活する見通しは全く立っていない。
ともかく、広大な山林に手を付けられない限り、放射能汚染は基本的に減らない。だが、山林の除染は不可能なのだ。広大な面積の樹木と下草を完全伐採するか、山林そのものを完全に焼き払うことができれば、少なくとも除染の準備はできるかもしれないが...


■ 帰宅後の体調不良


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その日の夕方、木幡夫妻とは、会津若松市で別れた。私には、ある目的があって、会津若松で一泊した。翌日、ここから新潟経由で長岡市にいくためであった。会津若松を早朝にバスで経ったが、その朝下痢をした。更に、風邪ひき気味になっていた。
長岡への旅行は、その郊外の小国地区の我が家の墓参りをするのが目的であった。無事に墓参りを済ませ,菩提寺の住職とかなり長い時間話し込んで、夕方長岡の街に戻り、そこで宿をまた取った。風邪の調子はますます悪くなっていて、気管支炎を併発していた。私にはこの傾向が常にあるのだが、今回は、様子が違っていた。気管支から血が出たのだ。しかもその出血がなななか止まらないのである。こんなことは、全く初めてのことであった。
翌日また会津若松に戻ったのだが、そこから東京に帰ると、早速病院に駆け込んだ。多量の薬の服用でやっと一週間後に、出血は止まったのだった。その間、アンデスから持ち帰ったパンティと呼ばれる生薬を飲み続けたことは、いうまでもない。実に、この生薬(と言っても乾燥花だが)は気管支炎によく効くのである。
その頃、原発と鼻血を結びつけ漫画の描写が問題になっていた。それも、福島県の「風評被害」などという論調で。全く意味がわからなかったが、原発周辺で低線量被曝をし、悪くすると内部被曝したりすると、だれでも免疫力が低下し出血する人も多くいることは、ウソではないと実感できたのだった。■■

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©Yoshiki Kobayashi Katoh foto-0 / foto-22
©Shinshu Hida foto-7

推奨ページ:
忘れがちだが、忘れてはならない警戒区域の惨状(一時帰宅同行記−−2012年11月)
http://asama888.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-709b.html [山本宗補の雑記帳]







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