「アジサイ革命」は、「金曜日デモ」の巣から飛翔できるか?

マスコミは、6.29で最高潮に盛り上がった「金曜日デモ」のその後を軽く見始めている。その一つに「週刊朝日」2012年7月20日号の記事「ガス抜きか祝祭か アジサイ革命=金曜デモの今後はいかに」(インターネット版週刊朝日 7月9日)がある。

デモの運動かくあるべしなどを、ここで詳細に述べる気はない。ただ、デモ主催者は、参加者の最大公約数のスローガンを提示すればよいのであり、デモは一つの生き物のようにいろいろな方向に変化をしていく。それを制止したりすることは控えねばならないことだけを指摘しておきたい。

より重要なのは、週刊朝日の記事で指摘されていることだが、デモ参加者相互の間での「対話」(コミュニケーションでなく、敢えてこう言いたい)の無さであり、これをどうするかなのである。この対話の渦が湧く起こってこないと、参加者の「連帯感」も生まれないし、これからの新しい核もうまれてこない。

この今まで類を見ない市民の運動は、盛り上がってまだ日が浅い。この「対話」の目覚めはきっと興ってくると思う。予定されている「7.29デモ」はその試金石になるかもしれない。

まづは、上記の「週刊朝日」記事の次のような指摘を噛みしめる必要がありそうだ。

…主催者側も、<さくっと集まってさくっとおわり、何度も執拗に繰り返すというのが金曜日のスタイル>とはいうものの、明確な展望があるわけではないようだ。

原発危機と「東大話法」』の著書がある東大の安冨歩教授は、せっかくデモに集まった人々が互いに言葉を交わすこともなく、バラバラに叫んでいる印象を受けたという。安冨教授は今後をこう占う。

「集まった方々が互いに挨拶したりして、つながりができるようになれば、運動は質的に発展するでしょう。人々の『心の殻』こそが、原発のようなものを生み出しているのですから、その殻を打ち破ることが運動の成否を決します。それがなければ、単なるガス抜きで終わりかねません。これが『金曜夜の祝祭』へと発展すれば、屁の河童と思っている政権もやがてその渦にのみ込まれます」

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120709-00000005-sasahi-soci


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