反核抗議行動の現在は、その未熟さを露呈した(1)

8.22.首相面会に応じた「首都圏反原発連合」の資質を問う



「首都圏反原発連合」(Metropolitan Coalition Against Nukes)とは何者か?
デモの参加者には意外と知られていないし,また、本当はどうでもいいことなのだが、金曜日抗議行動の「主催」と呼びかけ人の母体は「首都圏反原発連合」(以下「連合」)と言う団体だ。この度この団体が、野田首相と面会した。彼等は、あたかも盛り上がった反核抗議行動の代表者という態度をとっていたし、またそのような扱われ方を、マスコミ・政府などからされた。では、この団体の実態はどんなものか、時間をかけて調べて見たが、実態がまったくつかめない。手がかりらしいものとしては、同団体のホームページに簡単に以下のような自己紹介が載っており、今の処それしかない。

(以下引用)

首都圏反原発連合は、首都圏でデモなどをやっているグループが力をあわせようと、2011年9月に立ち上がったネットワーク(連絡網)です。国内外の様々なグループや団体や個人と連帯し、脱原発を目指し実現していきたいと思います。

首相会見後、記者会見を開いた「主催者」側メンバー

「首都圏反原発連合」参加グループ
◆Act 311 Japan
◆安心安全な未来をこどもたちにオーケストラ
◆「怒りのドラムデモ」実行委員会
◆エネルギーシフトパレード
◆くにたちデモンストレーションやろう会
◆「原発やめろデモ!!!!!」関係個人有志
脱原発杉並
◆たんぽぽ舎
◆TwitNoNukes
◆NO NUKES MORE HEARTS
◆パパママぼくの脱原発ウォーク
◆野菜にも一言いわせて!原発さよならデモ
◆LOFT PROJECT
◆他個人有志
(2012/6/24現在・50音順)

(以上引用)

そこで、「参加グループ」のホームページを個別に当たってみたが、各グループの主張、または多少なりとも論理的な「言い分」といったものがほとんど伺えなかった。印象でしかいえないが、多くは音楽・美術(?)などアート系の集団、あるいは地域密着型の市民活動集団のようだ。それはそれでよい。「反核」運動は多様な行動パターンと多様な集まりの集合であるべきだからだ。そうであるならば、なおさらのこと、個別具体的な立場あるいは密着している地域からの「反核」への篤い思い、具体的な怒りの声が噴出していてしかるべきではないか。「連合」体として、それを束なるのが苦労するくらいに百花そうらんの力強さと多様性があってしかるべきではないのか。しかし、それがない、なぜか?

つまり、「連合体」の各単位が戦う集団にまだ育っていないのである。彼等は、現下の放射能汚染の事態を、マスコミ報道のうそを見抜いた上で、本当に深刻に考えているのだろうかと疑問に感じてしまう。彼等の実態を知れば知るほど、裏切られた気分になってしまう。あるいは、素人集団を装うほかの意図をかんぐりたくなってしまうくらいだ。

私たちデモ参加者の多くは、彼等の意図を超えて集合した者たちである。単なる買い物帰り、仕事帰りのデモ初心者ではないし、多くのものは身銭を切って地方から駆けつけている。このたび抗議行動は、そのような人物によって盛り上げられたのである。「連合」とは直接何の関係もないと言い切ることができる。

アジサイ革命」の中で、デモ主催者の取った行動に、疑問
現在の反核運動は「アジサイ革命」と命名された。「連合」を初めとする一部から、「革命」の用語を使うことに自制の声が上がった。これはおかしい。市民運動は、発案者の思惑を超えて膨れ上がり、激しくなれば成功である。

筆者が参加した6.22、7.29の抗議行動では、大きな盛り上がりを見た。その現場で、「デモ主催者」と称する何人かの人物(腕章をしていた)が、デモ参加者の交通整理をしたり、時間通りに解散を呼びかけたり、過激な動きを官憲サイドから押さえにかかっているのを見て、大きな違和感を感じたのだった。

何故そんなことをするのか? いわく、官憲の過剰な取締りを引き出さないため、素人の市民が参加しやすくするため、などの声がかえってくる。しかし運動は、変化していくものだ。「主催者」の意図通りになるとは限らない。指示に従えないものは、他のデモに言ってくれとでも言うのだろうか。そうだとすると、完璧な抗議行動の私物化である。

「連合」の実態を、ちょっとのぞいただけでも、この主催者は社会的にな運動をコントロールし指導していく力量を持ってはいないことが分かる。したがって、多くの抗議行動参加者は、各自の怒りと思いのたけをアナーキーにぶっつけていたのだとおもう。

「連合」は、呼びかけ人であっても、「代表者」などでは決してなかった。


首相面会に応じた愚かな行為
天木直人氏は、2012年08月04日付けの「野田首相と面会を求める反原発市民団体代表とは何者か」と題するプログ記事で、怒りを込めて次のように述べた。まったく同感である。

(以下引用)

  これから書くことは8月1日のブログ、「こいつらだけは許せない 菅、辻元、福山の風見鶏政治家そろい踏み」、の続編である。
 その後の報道をみると野田首相が反原発の市民団体代表らと近く面会をしたいと言いだしているらしい。
 それを知ってますますこの動きの胡散臭さを感じる。
 菅、辻元、福山などの動きが、その動機において不純であることについてはもはや誰もが見抜いてる。
 そしてそれに乗ろうとする野田首相の思惑も明らかだ。
 だからそんな菅・辻元・福山ら民主党議員と野田首相の合作によるシナリオの片棒を担ぐような反原発市民団体の代表とは何者なのか、私はその顔が見たいのである。
 そもそも大飯原発再稼動反対を叫んで官邸の前に集合するものたちの大部分は、私を含めて、いかなる団体、組織にも属していない者たちだ。
 いかなる政治的思惑も無く、ただひたすら野田政権の原発政策に反対し、原発の再稼動は止めろと叫んで抗議する、それだけである。
 彼らにはそのような自分の思いを代弁する市民団体やその代表など要らない。
 彼らが願うのは野田首相と会うことでも、野田首相と駆け引きをすることでもない。
 原発再稼動を止めろ、この国から原発をなくせ、間違った政策を止めろ、と叫ぶだけだ。
 その叫びを聞いて野田首相が政策を変えればいいだけの話だ。
 そんな我々とは関係のない反原発市民団体の代表たちは、どういう基準で選ばれたというのか。
 彼らがどういう資格で我々一般的なデモ参加者の気持ちを代弁するのか。それを正当にできるのか。
 なによりも彼等は野田首相と話し合って原発再稼動を止めさせることが出来るとでもいうのか。
 日本から原発をなくしますと野田首相に言わせる事ができるというのか。

 決してそうではないだろう。
 野田首相と反原発市民団体との意見交換は不毛に終わる。
 欲求不満の、後味の悪いものとなる。
 野田首相菅直人らの、「市民の声をよく聞いて原発政策を進めていく」といううアリバイづくりやパフォーマンスに終わっておしまいだ。
 最悪である。
 こんな茶番に喜んで付き合おうとしている市民団体の正体を私は見極めたい。

(以上引用)

「連合」は、もとより、「アジサイ革命」と呼ばれる現在の反核運動の代表者の資質を持っていない。誰かから「代表者」として指名されたのだろう、首相との面会にのこのこ出かけていって、20分程度の時間で話し合いは終わった。 そのあと「団体」は記者会見を開き、予期していた通りに失望したけれどもある程度の意義あったことを強調した。そして、それがマスコミのニュースに載った。例によって、福島社民党党首が、「事実上ゼロ回答だった。人々の思いを聞いて政策を変えるということになっていない。残念で怒りを感じる」と述べて、茶番劇はおわった。

「連合」は、むしろ、面会を拒否すべきであったろう。もし盛り上がった広範な抗議行動の「代表者」を自認するなら、再稼動の中止を考慮する用意があるなら「面会してもよい」という毅然たる態度を貫くべきではなかったか。私たち一人一人のデモ参加者の情熱は、「連合」が権力の術中にはまることを後押ししたのでは決してない。これでは、天木氏が言うように「最悪」だし、裏切りである。

60年代に盛り上がった市民抗議行動(当時は「反戦」が旗印であった)が、途絶えて久しい時間がたつ。市民運動も新たな状況とツールを利用しながら、ゼロからの再スタートを余儀なくされている。当時と比べると、3.11を経過して現在はより深刻な問題に直面しているはずだ。つまり、うそに満ちた非常識なまでの放射能汚染、さらには解決不可能に近い核廃棄物処理に直面して、どうしても国家の梶を原発廃絶に変更すべく要求しなければならないのだ。 私たちは止まってしまうわけにはいかない。身勝手な官僚主導政府に屈して、うつむいて生きるわけには行かないのだ。またニヒリズムに陥ることもできない。

新しい運動の建て直しが必要である。どうすればよいか? 必要とされる抗議行動の新らたな「核」をどう構築すべきか、を稿を改めて書く予定です。

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