刑務所の中で、放射能攻撃と如何に戦うことができるか


幼児体験は非常に強く記憶に残るものだ。特に、怖い・異様な体験はトラウマとなって、意識の中に強く止まる。もちろん、いつでも意識しているものではないけれど、突発的に夢の中に現れてきて、しばらくはまた、そのイメージが記憶の表にとどまることがある。このような経験を皆持っていると思う。

個人的な話で言えば、かなり強烈なトラウマの一つに、「刑務所・放射能・ケロイド」にまつわるものがある。その経験を具体的に言えば、次のようなものだ。

私の父は、大学教員で、戦後は、反体制的な考えを抱いているような人間であった。だから、父が日常読む雑誌は、娯楽の類はまったくなく、どちらかといえばシリアスで社会的なもの、あるいは文芸ものであったようだ。だから、幼児の僕が、それらを盗み見ることなどまったくなかったし、どちらかといえば忌避していたはずである。ところがある日、父の机の上のある雑誌をぱらぱらとめくって見た。雑誌の名前などまったく判らない、まだ私が、小学校に上がる前のことである。

その雑誌の最初の部分にあった一面サイズの挿絵に釘付けになった。それは、焼け爛れた数人の男が開け放たれた鉄格子の中からぞろぞろと出てくる絵であった。彼等の眼はうつろであるが、恐ろしい怒りがこもっているように見えた。それは、確か白黒の墨絵であったはずだ。

一瞬衝撃に打たれたが、それが何を物語っているのか、私には理解はできなかった。その後、恐る恐る、その挿絵を何度か覗き見して初めて、それが原爆で焼き払われた広島にある刑務所の囚人の被爆の様子を描いたものであることが分かってきた。確かその前後のグラビアには写真があったが、そのシーンだけは手書きの挿絵であった、それも極めてリアルは筆遣いだったと思う。多分、被爆した広島刑務所に収監されていた囚人のうち、生還を果たした一人から聞き取った実際の話を挿絵にしたものにちがいない。

監獄に閉じ込められた人の上に原爆が炸裂する、もちろん逃げるに逃げれない。こんなことがあっていいのだろうか、こう思うようになったのはだいぶ後になってからであった。当時はともかく、恐怖の気持ちでいっぱいだった。毎日毎日、瞬間瞬間が弾むような楽しさで一杯だった当時の私の日常に、突然、壁を突き破って侵入してきた醜悪な群像のように思えた。

それでも、幼児の私に、この世の中に暗く重い世界が存在することを最初に教えてくれたものが、この挿絵であったような気がする。時々フラッシュバックしてくるこの映像は、私の人格形成に何らかの形で関わっていることは間違いないようだ。しかし、トラウマはトラウマに過ぎない、特に重大視してきたわけではない。出来事そのものが、個人的に言えば極めて偶然事であって、それゆえに一層恐怖を植えつけられもしたが、後の私の生き方に直接かかわるものではなかった。

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今回の福島第一原子力発電所の爆発・メルトダウン事故でも、周辺地域に刑務所がいくつもあるので気になっていた。

原発周辺の住民は,放射能漏れの危険の噂が飛び交うと、パニックになって遠方へと逃げた(逃げなかった人も居たが)。双葉町大熊町では、家畜や犬、猫は畜舎、家の中などに取り残された。これらの遺棄された家畜などは、逃げる必要性を理解することは勿論なかった。放射線の直接被曝ではなく、眼に見えない放射性物質の拡散の危険だったからだ。ただ人間が居なくなって食料に困り果て、動物たちは檻や破って街中を徘徊し、自ら食料をあさり始めた。このような映像が、しばしばテレビで放映されのだった。

ところが、逃げように逃げられない人々がいる。それも同じ人間によって檻に閉じ込められ、被爆の危険にさらされていた人々である。上に述べた広島刑務所の惨状とは異なるとはいえ、情況はまったく一緒だ。刑務所とはそういうところだ。

マイナーな雑誌「創」に福島刑務所の元受刑者の告白が載ったことを知って、即座に私は反応した。すぐに都心の本屋で立ち読みしてしまった。告白によると、(広島刑務所のような)惨状というほどではなかったようだが、ことは低線量被爆であるから、近い将来どのような惨状が見舞うか予断を許さないと思う。

以下は、ちょっと古いですが、雑誌「創」に載った告白記事を紹介する。

(以下引用)

3・11後、「福島刑務所」はどんな状況だったのか 元受刑者が告白

 7日に発売された月刊『創』で、この4月に福島刑務所を出所した人が「3・11後の福島刑務所」について詳しく語っています。放射能汚染について詳しい情報が伝えられなかったのは日本中同じでしたが、刑務所はもともとそういう説明がきちんとなされるところではないので、受刑者たちは非常に不安だったようです。震災直後、受刑者たちも身内がどうなったか安否を気にしたのですが、刑務所も被災したためか、テレビが見られたのは2日後。その後もほとんどきちんとした説明はなされず、ニュースで原発の爆発を知った受刑者たちは、不安におののいたようです。
 原発事故対応としては、福島刑務所では、昨年5月頃より、関東からの受刑者は関東の各刑務所に移送されていたようです。今年に入って刑務所敷地内で除染も行われたようですが、受刑者たちは放射能についての説明もほとんど受けず、不安を何度も訴えると警備隊員に連行されるという状況だったようです。むしろ中国人など外国人受刑者の方が、領事館からいろいろな文書が届くなど、丁寧な扱いを受けたとのことです。
 その他、福島刑務所のこの1年余の内部状況については、その記事をご覧いただきたいのですが、この福島刑務所の受刑者たちが問題になったのは、7月4日に産経新聞が一面トップで「東電、受刑者も原発賠償」という記事を報じたからでした。福島刑務所受刑者も申請すれば一般の被災者と同じく8万円が東電から支払われており、約1700人の全受刑者が請求すると1億3600万円になるという報道でした。
 これについて、そんなふうに一律支給でよいのか、という危惧の声が上がったのでした。
 ただ、その元受刑者の話によると、受刑者の間で東電からの賠償金については多くの人が知っていたけれど、実際には申請手続きをしようとしても、刑務所側が協力的ではなく、なかなか賠償金を受け取るのは簡単でないようになっていたようです。このへんは建前と現実が乖離しているという刑務所らしい話なのですが、いずれにせよ、3・11以後、福島刑務所はどうなっていたのか、という話題がネットなどで流れていながら、元受刑者が詳細を語った例はなかったようなので、今回の告白はなかなか興味深いといえます。

投稿者: 篠田博之 日時: 2012年8月13日 23:22 |

(以上引用)

“The Journal” 篠田博之の「メディアウォチ」
http://www.the-journal.jp/contents/shinoda/2012/08/11_1.html
月刊『創』




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