日米開戦の経緯を追ってみる-1941年


はじめに

巷間、現在すでに第三次大戦に入っているという見方がある。現代はサイバー戦が決め手の戦争だという見方からすると、すでに始まっているといってもおかしくはないだろう。日本にとって戦いの敵は支那ということになるだろうが、戦いの始まりは何時なのか、全てが現在進行形で進む世界でそのことを見定めるのは難しい。歴史的事実として時間をおいて見るとそれははっきりしてくるのだが、歴史学は科学であるから、やはりミネルバの梟なのだ。

しかし、過去の歴史的事実を何度も振り返ってみて、何か新しい視点をそこに充ててみることはやはり必要だろう。歴史は繰り返すので、現在を知るためにも、何かのヒントを過去の事例の中に見つけうるかもしれないのだ。

そこで先の大戦の日米開戦の状況をふりかえってみたい。現在進行中の米朝交渉と朝鮮半島情勢を考えるうえで何か示唆を得るかもしれない。使用した主な資料は、最近完結した宮内省編「昭和天皇実録」、そこからの抜粋である。


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昭和15年11月5日
アメリカ合衆国大統領選挙で現職のフランクリン・ルーズベルトが勝利。アメリカではじめての3期目の大統領となる。
ルーズベルトの3選は民主党内からも多くの批判があった。また、合衆国には強い孤立主義感情が根深かった。それを意識して彼は再選されれば外国との戦争は無いとの約束を前面に立てて選挙戦を戦った。結局、ルーズベルト労働組合、大都市の政治マシーン、少数民族有権者、および伝統的に民主党が強いソリッドサウスの支持を確立することで、余裕のある勝利を得た。
当選後、公約に足を取られつつも、彼ははっきりと対日・対独の方針に舵を切っていった。

11月10日
紀元二千六百年記念行事。式典に臨御のため、陸軍式御軍装に大勲位副章以下勲章・記章全部を御佩用になり、午前10時48分、皇后とともに御出門。宮城二重橋前広場に行幸され、皇族、王公族を携えて式殿に出御される。総理大臣より式典開始の旨が奏上された後、皇后とともに御起立になり、参列者五万余名より最敬礼を受けられ、君が代の奉唱とお聞きになる。総理大臣の寿詞のあと、天皇侍従長が俸呈する勅語書を受け取られ、ご朗読になる。なお式典の様子はラジオにて実況放送され、式典は日本国内のみならず、新京・広東・上海・北京・南京各地においても執り行われた。
勅語は以下の通り。
茲ニ紀元二千六百年ニ膺リ百僚衆庶相会シ之レカ慶祝ノ典ヲ挙ケ以テ肇国ノ精神ヲ昂揚セントスルハ朕深ク焉レヲ嘉尚ス
今ヤ世局ノ激変ハ実ニ国運隆替ノ由リテ以テ判カルル所ナリ
爾臣民其レ克ク嚮ニ降タシシ宣諭ノ趣旨ヲ体シ我カ惟神ノ大道ヲ中外ニ顕揚シ以テ人類ノ福祉ト万邦ノ協和トニ寄与スルアランコトヲ期セヨ

(この間、仏印-ベトナム-への日本軍進駐の事態が進行する。昭和15年9月23日、北部仏印へ進駐。また昭和16年6月25日大本営政府連絡会議で南部仏印進駐決定。7月28日南部仏印へ進駐開始。いずれも、支那事変の対応に足を取られ、同時に英米の対日措置にとらわれて、、進行したものであった。-> 別稿を準備中
また、昭和16年1月、山本五十六によって「真珠灣奇襲作戦」の原案が陸軍大臣に明示された。この作戦案は軍部内での承認(8月-9月)、作戦日の決定(9月-10月)の曲折を経て、11月27日-12月1日国策として決定されることになる。その間、山本の主張と活動は本作戦案の推進力となった。
もう一つ重要なことは、この紀元二千六百年の年(昭和15年)、対英米戦争で欠かすことのできなかった「零式戦闘機」-設計者堀越二郎の指揮する三菱重工製- が、数度のテストの末7月24日やっと海軍で制式採用されたことである。これは、開戦( 16年12月)まで1年の余裕をあましており、実戦配備のための大量生産することができたことは奇遇としかいいようがない。)

昭和16年7月2日
御前会議。『情勢の推移に伴う帝国国策要綱』の検討が議題。その概略は、
1)蒋介石政権(重慶政権)屈服促進のため更に南方諸域寄りの圧力を強化する(仏領インドシナからの米国等の支援路の遮断)
2)独ソ戦に対しては三国枢軸の精神を基調とするもしばらく之に介入することなく、密かに対ソ武力的準備を整え、自主的に対処す。
3)米国の参戦は既定方針に従い外交手段により極力之を防止すべきも、万一米国が参戦したる場合帝国は三国条約に基づき行動す。
枢密院議長原嘉道より、少なくとも我が国より進んでの対米戦争は避けるべきであるとの自説を展開する他、活発な議論はなし。午後、天皇が『要項」を御裁可になる。

7月15日
国際連盟脱退演説行って以来、三国同盟に前のめりに独断専行の行動が目立っていた松岡外相を更迭。この4月以降、対米交渉に関し近衛首相との間で意見対立が目立っていた。14日、大本営政府連絡会議の対米交渉了解案に反した訓令を駐米大使に打電したこと、またドイツ側には日本側の情報を内報する挙に出たことを問題視して、近衛首相は外相更迭と内閣総辞職を奏上。天皇より外相更迭のみの意向を述べられる。新外相は豊田貞次郎。

7月30日
午後3時より、御学問所にて、軍令部総長長野修身に謁を賜う。
長野より仏印進駐および対英米作戦に関する奏上を受けられる。その際、天皇は、博恭王(注)が軍令部総長在職時代に対英米戦争を回避するよう発言していたとして、現総長長野の意向に変化あるや否やにつき御下問になる。長野より、前総長と同様、出来る限り戦争を回避したきも、三国同盟がある以上日米国交調整は不可能であること、その結果として石油の供給源を喪失することになれば、石油の現貯蔵量は二年分のみにしてジリ貧に陥るため、むしろこの際うって出るほかない旨の奉答を受けられる。天皇は、日米戦争の場合の結果如何につき御下問になり、提出された書面に記載された勝利の説明を信じるも、日本海海戦の如き大勝利は困難なるべき旨を述べられる。軍令部総長より、大勝利は勿論、勝ち得るや否やも覚束なき旨の奉答をお聞きになる。
暫時の後、侍従武官長蓮沼蕃をお召になり、前軍令部総長の博恭王に比べ、現軍令部総長は好戦的にて困る、海軍の作戦は捨て鉢的である旨を漏らされ、また勝利は覚束ないとの軍令部総長の発言に付き、成算なき開戦に疑問を呈される。

(注)海軍軍令部の総長は、伏見宮 博恭王(在任期間1932-1941)、永野修身(在任期間1941-1944)へと交替した。


7月31日
午前、内大臣木戸幸一をお召になり、昨30日の軍令部総長の拝謁内容につき様々ご談話になる。天皇は、軍令部総長が米国との戦争に勝利の確信の見込みなしとしながら、国交調整の不調と石油の枯渇を理由としてこの際打って出る他ないと主張したことに関し、かくては捨て鉢の戦をするにほかならず、誠に危険であるとの感想を述べられる。内大臣より、軍令部総長の意見は単純に過ぎること、国際条約を尊重する米国の国情に鑑み、日本の三国同盟破棄が同国の信頼を深めることとなるやは疑問であること、日米国交調整は未だ幾段階の方法もあり、粘り強く建設的に熟慮する必要がある旨の言上を受けられる。

8月6日
御学問所にて近衛文麿首相に謁を賜う。日米首脳会談実現に向けた決意につき奏上を受ける。夕刻、参謀総長杉山元に謁を賜り、ソ連軍航空部隊の大巨襲来の場合における関東軍司令官の措置に関する命令につき上奏を受けられる。天皇はやむを得ないこととして承認されるも、陸軍の好戦的傾向に鑑み、謀略等をしないよう特にご注意になる。

8月7日
ご学問所において近衛文麿首相に謁を賜る。首相に対し、米国の対日全面石油禁輸に関す情報に鑑み、首相が速やかに米国大統領と会見するよう天皇自らが望む旨を仰せになる。

8月11日
内大臣木戸幸一をお召しになる。内大臣対し、過日首相が奏上した米国大統領との会談が成功すればともかく、米国が日本の申し出を単純率直に許容しない場合には、真に重大な決意をせざるを得ないとのお考えを示される。また、従来の御前会議は如何にも形式的につき、今回は十分納得できるまで質問をしてみたいこと、ついては会議には事務方の者を加えず、首相・外相・蔵相・陸相海相・企画院総裁(注)・参謀総長軍令部総長に三元帥を加えた構成することを希望される。

(注)1937年支那事変勃発後、戦時下統制経済計画ならびに戦いのロジスティクスを担うものとして企画された。企画院に結集した人物は、近衛文麿のブレーン組織「昭和研究会」の中心メンバーである朝日新聞社論説委員笠信太郎佐々弘雄や記者の尾崎秀実などと、稲葉秀三や勝間田清一らの革新官僚ソ連スパイ尾崎秀実をはじめとする転向左翼ら所謂「国体の衣を着けたる共産主義者」であった。彼らはマルクス主義に依拠して戦争を利用する上からの国内革新政策の理念的裏付けを行い、国家総動員法の発動を推進した。左翼思想の持ち主が多いため、事件を数度起こしている。



8月22日
午後2時外務大臣豊田貞次郎より、我が国より申し入れの日米首脳会談に対する米国政府の長文回答につき奏上を受けられる。引き続き、近衛文麿首相をお召になり、また夕刻、内大臣木戸幸一をお召しになる。

8月27日
午後3時、御学問所にて近衛文麿首相に謁を賜い、昨26日発電の対米回答(近衛メッセージ)につき奏上を受ける。さる17日、米国大統領は日本の南部仏印への武力進出に警告を発したが、首脳会談には前向きな姿勢を示していた。これを受けて、首相の回答には、南部仏印進駐が我が国の自衛やむを得ない措置にして、支那事変の解決または公正な極東平和の確立後に同地より撤兵する用意があること、さらに日ソ中立条約の遵守、及び隣接諸国への武力行使の意向なきことが表明される。よって、太平洋地域における平和維持のため両国首脳の直接会談に米国の賛同を願う旨が記されていた。

9月5日
午後4時、内閣総理大臣近衛文麿に謁を賜う。首相は、本日閣議決定の「帝国国策遂行要領」につき奏上し、翌6日にこれを議題に御前会議を開催することを奉請する。『要領』の骨子は、次のようなものであった。
1)対米戦争準備---帝国は自存自衛を全うするため、対米、(英・蘭)戦争を辞せざる決意のもと概ね10月下旬をめどとし戦争準備を完整す。
2)対米外交努力---帝国は並行して米、英に対し外構の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む。
3)開戦期日---外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我が要求を貫徹し得る目途なき場合に於いては直ちに対米(英・蘭)開戦を決意す。
天皇は、1)と2)の何方が主でどちらが副かを首相に問いただしたが納得せず、陸海両統帥部長を呼び寄せ説明を求められる。
午後6時、御学問所に於いて再び首相、ならびに急遽参内の参謀総長杉山元軍令部総長長野修身に謁を賜る。冒頭、天皇は『要項』は外交を主とし戦争準備を副とすべきことを要求され、第一項と第二項を入れ替えるべきことを要求される。参謀総長杉山と天皇の議論が繰り広げられるが、最後に強き言葉を持って参謀総長を御叱責になる。
参謀総長が恐縮する中、長野軍令部総長は発言を願い出で、次のごとく述べる。現在の国情は日々国力を消耗し、憂慮すべき状態に進みつつ有り、現状を放置すれば自滅の道を辿るに等しいため、ここに乾坤一擲の方策を講じ、死中に活を求める手段にでなければならず、本『要項』はその趣旨により立案され、成功の算多きことを言上する。天皇は、無謀なる師を起こすことあれば、皇祖皇宗に対して誠に相済まない旨を述べられ、強い御口調にて勝算の見込みをお尋ねになる。長野軍令部部長は、勝算はあること、短期の平和後に国難が再来しては国民は失望落胆するため、長期の平和を求めなければならない旨を奉答する。

9月6日
御前会議。
午前10時、東一ノ間にて、「帝国国策遂行要領」を緊急議題に会議開催される。冒頭首相が開会を宣し、本日の議題に沿って、首相・軍令部総長参謀総長・外相・企画院総裁より順次説明あり。
引き続き、枢密院議長・原嘉道が、戦争準備と外交交渉の軽重関係について、天皇の意向に沿った発言を行う。それに対し、海相参謀総長より考えを同じにするとの返答があった。最後に、枢密院議長は、日米国交調整に一部反対の態度をとる者があり、反対者による直接行動のごときは憂慮に耐えないため、朝議の決定が断行できる勇断徹底的な処置をとられたしと要請する。これに対して内相より、甚だ遺憾であり、団体・個人の調査をなし、いざという時には必要な措置を取る旨の説明有り。以上を持って「帝国国策遂行要項」は可決される。

会議がまさに終了せんとする時、天皇より御発言有り。天皇は、事重大に付き、両統帥部長に質問すると述べられ、先刻枢密院議長が懇々と述べたことに対して両統帥部長は一言も答弁なかりしが如何に、極めて重大な事項にもかかわらず、統帥部より意見の表示がないことを遺憾に思うと仰せられる。更に天皇は、毎日拝唱されている明治天皇の御製
「よもの海みなはらからと思う世に
など波風のたちさわぐらむ」

が記された紙片を懐中より取り出し、これを読み上げられ、両統帥部長の意向を質される。満座は暫時沈黙の後、軍令部総長参謀総長の順で枢密院議長の意見と同じ旨を述べる。之にて閉会

10月16日
近衛文麿内閣の総辞職。
政変の概略: 近衛は、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領との直接会談を8月初旬より天皇の要請のもと企図する。会談で日米間の合意を先に形成し、その会談の場から直接天皇の裁可を求め、陸海軍の頭越しに解決しようという計画を立てた。しかしアメリカ側は会談自体には同意したものの、会談はあくまで最終段階と位置付け、先に事務方の交渉で実質上の合意形成をするべきであると10月2日に通告してきたため、近衛の目論見は頓挫した。つまり「国策遂行要領」が開戦決意の条件とする「10月上旬において交渉の目途が立っていない」状況となった。
それでも外務省が新たな対米譲歩案を作成し、それを元に10月12日に近衛と豊田外相が東條陸相を説得するが、結局不調に終わる。10月14日の閣議において東條はその件を暴露した上で「感情的になるから以後首相とは会わない」と宣言する。 同日、ゾルゲ事件の捜査が進展し、近衛の側近である尾崎秀実が逮捕され、ゾルゲ事件に近衛自身までもが関与しているのではないかとの観測すら窺われるに至って近衛の退陣は不可避となった。16日に近衛は総辞職し、第3次近衛内閣は約3か月で終わった。(wikipedia)

10月17日
重臣会議。
後続内閣首班の推薦のため重臣会議が開催される。いくつかの推薦が提案されたがいずれも反対された。その中で内大臣木戸幸一陸相東条英機を首相とし、陸相兼任とすることを主張、強いて異論はでなかった。
内大臣は速やかに東条の推薦を奏上し、天皇は東条を召すよう御沙汰になる。陸軍大臣東条英機に謁を賜い、後継内閣の組閣を命じられる。

10月18日
午後2時、御学問所にて東条英機に謁を賜い、新たな閣員名簿の献呈を受けられる。3時より鳳凰の間において新閣僚の親任式を行う。新たな閣僚には、軍務関係の変更はほぼ無いが、政務関係はかなりの変更があった。特に、特命全権大使東郷茂徳外務大臣兼拓務大臣に、岸信介を商工大臣に任じた。
5時4分、御座所に内大臣をお召になり、同33分まで謁を賜う。尚、天皇内大臣に命を下さり、内大臣は退下した陸海両相に対し、以下の通り伝達する。
「只今、陛下より陸海軍協力云々の御言葉がありましたことと拝察いたしますが、尚、国策の大本を決定せられますに就いては、9月6日の御前会議の決定にとらはるる処なく、内外の情勢を更に広く深く検討し、慎重なる考究を加ふることを要す、との思し召しであります。命によりその旨申上げ置きます。」

10月20日
午前10時43分、内大臣木戸幸一をお召になり、今回の政変に際しての内大臣の尽力を労われる。その際、内大臣より、不用意な戦争突入を回避する唯一の打開策と信じて東条を推挙した旨をお聞きになり、いわゆる虎穴に入らずんば、虎児を得ざる旨のご感想を述べられる。

11月2日
御学問所において総理大臣東条英機参謀総長杉山元軍令部総長長野修身に謁を賜う。首相より、昨1日午前9時より本日午前1時30分におよぶ「大本営政府連絡会議」の件に付き、つまり国策再検討の詳細な経過と結論に付き、奏上を受けられる。同会議に於いては、
1−戦争を極力避け、臥薪嘗胆す。
2−開戦を直ちに決意し、政戦諸施策をこの方針に集中する。
3−開戦決意の基に作戦準備を完整するとともに外交施策を続行する。
この三案の検討の結果、最後まで外交交渉の妥結に勤めるとともに、作戦的要請から12月初頭の戦機を失わないよう注意することに衆議が一致したため、「帝国国策遂行要綱」を再決定し、併せて対米交渉要領を決定した、と報告。
天皇は首相に対し、日米交渉により局面を打開できなければ、日本は已むを得ず対米英開戦を決意しなければならずやと漏らされ、また事態がそのとおりであれば、開戦準備の施策は已むを得ざるべきも、極力日米交渉の打開に努力するよう御要望になる。

11月4日
午後2時、陸海軍合同の軍事参議会の開催に御臨席になられる。議題は「帝国国策遂行要領、中国防用兵に関する件」にして、軍関連皇族ならびに陸海軍代表者が集まる。席上、まず長野軍令部総長より「開戦を決意した」経緯を述べ、作戦の見通しにつき説明した。

11月5日
御前会議。
 議題は、11月1−2日大本営連絡会議の討議を経て4日閣議決定された「帝国国策遂行要領」。会議では参加者の説明と質疑応答が行われ、「要綱」を承認。
続いて、枢密院議長・原嘉道の発言があった。彼は、米国との戦争に危惧を述べ、日本が参戦した場合、白色人種国家である独英米間の和平により、黄色人種国家である日本が孤立しないよう政府の善処を切望する旨を表明する。これに対して東条英機首相は、直接答えず、長期戦突入に伴って予想される困難な事態を憂慮して現状を放置すれば、石油の枯渇・国防の危機等を招来し、延いては三等国の地位に陥る懸念があること、人種戦争の様相を呈しない施策を考慮していること等を表明した

米国政府の動き
11月25日
ルーズベルト大統領はホワイトハウスに、ハル国務長官、スティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官、マーシャル参謀総長、スターク海軍作戦部長を招集して、会議が行われた。席上、”The question was how we should maneuver them into the positon of firing the first shot without allowing too much danger to ourselves”「アメリカに過大の危険を招かぬように配慮しつつ、日本のほうから攻撃をせざるをえなように仕向ける」ことで合意した。
11月26日
アメリカは、それまで日米交渉によって積み上げてきた、合意の一切を否定する「ハル・ノート」を日本に突き付けた。(加瀬英明:2015)

11月27日
大本営政府連絡会議(軍部・政府は開戦を決定する)

この日午前、「大本営政府連絡会議」が開催され、外相より日米交渉の成立が困難である旨の報告がなされた。日本側より去る20日提示の乙案に対する米国の対案(ハル・ノート)の骨子が、ワシントン駐在の陸海各武官よりの電報にてもたらされる。
ついで、午後2時再開の会議において各々情報を持ち寄って審議した結果、米国の対案(ハル・ノート)は最後通牒とみなすべく、もはや日米交渉の打開に望みはないため、11月5日の御前会議の決定に基づく行動を要するが、改めて12月1日に御前会議を開催の上、最終的に決定することを申し合わせる。ただし天皇が日米交渉を深く御ちん念になり、重鎮からの意見聴取を希望されていることにも鑑み、明後29日に重鎮を宮中に集め、首相より説明をなし、その後に午餐を賜ること、御前会議への重鎮の出席は不可なること、を申し合わせる。
また当連絡会議は、宣戦に関する事務手続き、国論指導要綱を審議の上決定し,予め草案を準備中の「開戦の詔書」案についてはさらに研究し、意見があれば内閣書記官長が取り纏めて修正するとした。

11月28日
午前11時30分から零時30分まで、御学問所において外務大臣東郷茂徳から説明を受けられる。野村・来栖両大使は、ワシントンにおいて現地時間26日夕刻ハル国務長官よりオーラル・ステートメントおよび米国対案(ハル・ノート)が手交されたこと。米国の対案は、日本側が提案した甲案・乙案いずれも拒否するものにして、米国が従来繰り返し主張してきた4原則の承認を求めるとともに、両国政府のとるべき措置として10項目を列挙していた。

11月29日
重臣会議。
午前9時30分より東一ノ間において「重臣会議」が開催される。会議は議長を置かず、また議決も行わない懇談形式とされた。参加者は、各軍大将、各国務大臣、枢密院議長、宮内大臣内大臣侍従長などであった。
まず東条英機首相より開戦の已むなき所以につき、また東郷茂徳外相より日米交渉の顛末につきそれぞれ説明する。ついで重臣より質問が相次ぐ。重臣のうち対米開戦やむなしとするものは3分の1、残りの岡田啓介若槻礼次郎のともに元総理大臣を中心とする3分の2は、積極開戦はドカ貧に陥るものにして、現状維持のジリ貧のうちに何とか策をめぐらすことを適当とし、対米忍苦・現状維持を主張する。
午後1時休憩、一同は御陪食に参列する。
御食後、天皇は御学問所に移られ,各重臣より順次意見を聴取される。発言者は、若槻礼次郎岡田啓介平沼騏一郎、米内光政、広田弘毅林銑十郎、阿部信行などであった。中でも、若槻礼次郎の次の発言は注目に値する。自存自衛のためならば敗戦を予見し得ても立つ必要あるも、大東亜共栄圏の確立等の理想に拘泥した国力の使用は非常に危険につき,考慮が必要な旨を進言した。
午後3時5分、天皇は入御される。なお、重鎮と閣僚は再び東一ノ間に移り、質疑応答を再開し、会議は4時頃終了する。

11月30日
午前10時5分より、御座所において宣仁親王高松宮今上天皇の叔父)と御対面になる。その際、親王は、海軍は可能ならば日米戦争の回避を希望している旨をお伝えになる。また、親王より、統帥部では戦争の結果は無勝または辛勝と予想している旨の言上あり。これに対して天皇は、敗戦の恐れありとの認識を示される。親王より、敗戦の恐れある戦争の取りやめにつき提案を受けられるも、これに対し天皇のお答えなし。
午後4時より、東条英機首相に謁を賜い、諸報告を受けられる。その際、海軍の戦争に対する自信の有無につき御下問になる。東条首相は、事ここに至りては自存自衛上開戦は已むをえないこと、統帥部においては戦勝に相当の確信あると承知するも、海軍作戦が基礎となるため、少しでも御懸念あれば軍令部総長海軍大臣をお召の上十分ご確認を願いたき旨を奉答する。
かくして6時13分、海軍大臣島田繁太郎・軍令部総長長野修身をお召になる。軍令部総長に対し、長期戦が予想されるも、予定どおり開戦するや否やにつきお尋ねになり、大命が降れば計画通り進撃すべきこと、明日詳細を奏上すべきも、航空隊は明日ハワイ西方の千八百里に達するとの奉答を受けられる。次いで海相に対し、開戦の準備状況及びドイツの単独和平の場合における措置方につき御下問になる。海相より、人員・物資共にい十分準備を整え、大命一下に出動できること、また元来ドイツは信頼できず、万一同国が手を引くとしても我が国にとって支障はないと考える旨の奉答を受ける。
両名の退下の後、内大臣をお召になり、海相軍令部総長に下問した結果、両名ともに相当の確信をもって奉答したため、予定通り進めるよう東条首相へ伝達すべき旨を御下命になる。

12月1日
御前会議
午後2時東一ノ間にて御前会議開催。出席者は、すべての国務大臣、統帥部側より、参謀部総長・次長、軍令部総長・次長、ほか枢密院議長、内閣書記官長、陸軍省軍務局長、海軍省軍務局長、総員19名が出席する。
長期戦を覚悟で開戦するも、今後戦争の早期終結に十分努力すべきことの首相表明がある。
午後3時45分会議終了。
午後4時5分、内閣より上層の御前会議決定に関する書類を御裁可になる。

(軍の開戦準備の動きは着実に進んでいた。海軍空母機動部隊は南雲忠一中将を指揮官として11月22日に、択捉島の単冠湾に集結。11月26日(軍部・政府が開戦を決定する「大本営政府連絡会議」の前日)、南雲は、出港直前、空母赤城に搭乗員達を集合させ、アメリカ太平洋艦隊を攻撃することを部下に初めて告げ、南雲機動部隊はハワイへ向けて単冠湾を出港した。
12月1日御前会議で真珠湾攻撃が決定されると、翌2日17時30分、大本営より空母機動部隊に「ニイタカヤマノボレ1208」の電文が発信された。その時、機動部隊は、高緯度コースを通って、すでに日付変更線を越えた地点を航行していた。攻撃司令を受けると、一旦停止し、後ハワイに向けて南進する。掲載した地図資料を参照)

12月2日
午後2時、参謀総長軍令部総長に謁を賜う。軍令部総長より武力発動時機を12月8日と予定する旨の上奏を受けられる。

12月3日
午前10時45分、今般出征の連合艦隊司令長官山本五十六に謁を賜い、出征の勅語を下される。
午後4時10分、侍従武官城英一郎より、連合艦隊司令長官山本五十六の奉答文を受けられる。奉答文は以下の通り。

開戦ニ先チ、優渥ナル勅語ヲ賜リ、恐罹感ノ至リニ御座イマス。謹ンデ大命ヲ奉ジ、連合艦隊将兵一同、粉骨砕身、誓ッテ出師ノ目的ヲ貫徹シ、以テ聖旨ニ奉ズルノ覚悟デ御御座イマス。

天皇は、奉答文を一度御朗読の後、三度ほど繰り返し熟読される。

12月8日
午前2時50分、天皇は御起床になる。海軍軍装を召され、3時御学問所において外相に謁を賜う。アメリカ大統領の天皇に対する親電の件であった。
午前3時25分(ホノルル時間-7日午前7時55分)より、わが海軍部隊はオアフ島米軍施設・艦隊への攻撃を開始し、四時30分ごろ、海軍省軍務局長より攻撃成功の報が電話にて外相にもとらされる。
午前6時、大本営陸海軍部より、帝国陸海軍が本日未明に西太平洋において米英軍と戦闘状態にはった旨の発表あり。
午前10時50分、準備された「宣戦の詔書」が渙発される。同時に臨時帝国議会の招集が発っせられる。  
参照->
[file:kobayaciy:米國英國ニ對スル宣戰ノ詔書.pdf]

ヘンリー・スティムソン陸軍長官の日記
12月7日(米国標準時) 日本がわれわれを攻撃したというニュースを聞いた時、最初に浮かんだ思いは、之で優柔不断のときは終わり、この危機でアメリカ国民は団結するだろうという安堵の気持ちだった。大惨事を伝えるニュースだったにもかかわらず、この思いが私を支配し続けたのだった。... つまり日本軍によるパールハーバー攻撃によって、それまで自らを閉じ込めていた巨人が解き放たれたのである。
ヘンリー・スティムソン回顧録』 (On Active Service in Peace and War)(下)、2017




12月8日(米国標準時) ルーズベルトは、日本への宣戦布告を議会に求め、所謂「屈辱演説」を行った。上院は全会一致、下院は1人が反対したのみで、宣戦布告を認めた。彼は、チャーチルに電話した直後、その日のうちに宣戦布告の誓約に署名した。
署名を終え微笑むフランクリン・ルーズベルト大統領と幕僚達

参照->[file:kobayaciy:Pearl Harbor Address to the Nation.pdf]

コメント:
写真を見るとルーズベルトはホッとしたようにも見えるし、余裕のあるようにも見える。しかしちょっと変なのは、演説を得意とするあのルーズベルトが屈辱演説(開戦演説)においては、その長さが異常に短いことである。高山正之氏は、このことを以下のようにコメントしている。
「アラモ砦だって250人死んで戦争を起こせたんだから、(真珠湾では)まあ251人以上300人未満戦死すればいいとルーズベルトは読んでいた。むしろ、ルーズベルトは日本軍機がヘタで死傷者が出ないのを心配していた。ところが、日本側はものの見事に、電撃戦、急降下爆撃もやって予想の10倍も戦死者を出した。2,500人も死なれると、これはやっぱり大統領は何をやっていたんだということになる。あれだけ日本が悪い、病原菌だ、好戦的でどうしようもない国だといっておきながら、おめおめと、それも海軍基地を見事にやられてしまった。ハミルトン・フィッシュの本を読むと、ルーズベルト真珠湾攻撃で大きな被害の出たあと、かなり落ち込み、おどおどしていたとある。意気揚々と「思う通り罠にハマった」「やっぱりあいつらは」と開戦演説をするかと思った。作戦成功、得意満面で一時間も演説するのかと思ったら10分で終わってしまった。」(「日本に外交はなかった」2016年)


12月16日
第78回帝国議会開院式のため、午前10時40分御出門、貴族院行幸される。式場に出御され、以下の勅語を賜う。

朕茲ニ帝国議会開院ノ指揮ヲ行ヒ、貴族院衆議院ノ各員ニ告グ。
東亜ノ安定ヲ確立シ世界ノ平和ニ寄与セムトスルハ朕ノ珍念極メテ切ナル所ナリ。然ルニ米英両国ハ帝国ノ所信ニ反シ、敢エテ東亜ノ禍乱ヲ激成シ、遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ッテ起ツノ已ムヲ得ザルニ至ラシム。朕深ク是ヲ憾トス。此ノ秋ニ当タリ帝国ト意図ヲ同ジクスル友邦トノ締盟悠々緊密ヲ加フルハ、朕ノ甚ダ倖フ所ナリ。今ヤ朕ガ陸海軍人ハ力戦健闘随処正ニ其ノ忠勇ヲ奮エリ。朕ハ帝国臣民ガ必勝ノ信念ヲ堅持シ挙国一体協心戮力速ニ交戦ノ目的ヲ達成シ、以テ国威ヲ宇内ニ震耀セムコトヲ望ム。(以下略)<<
(以上「昭和天皇実録」第8より)


地図資料


参考
久野潤チャンネル 2017/05/22
「開戦したいのはルーズベルトで日本じゃなかった件_日本海軍の実力_真珠湾編_その5」


あとがき
先ず言っておきたいことは次のことである。歴史的事実を振り返ってみると、戦争の当事者、ここでは大日本帝国と米国連邦政府(特に民主党)、の体質の違いである。

日本政府はみな、特に天皇は、米国も日本と同じように平和を望んでおり、緊迫しつつあった両国関係を緩和することを、当然望んでいると考えた。米国も日本と同じように、誠がある国だと思い込んでいた。しかし、高山正之の言を借りれば米国は「えらそうにウソをつく」国で、騙し謀略を国是とする国だと言ってよい。人種差別とセットになって、それは米国の建国以来、現在に至るまで抜き難い体質である。これは極言でもなんでもない。米国の長くない歴史をちょっと振り返ると、すぐに了解できることである。上掲のルーズベルトと閣僚達の表情がそのことをよく物語っていると思う。

9月6日の御前会議で昭和天皇が読まれた明治天皇の御製は、日本人の考えと心情をよく表しているだろう。これは日露戦争のおりに詠まれたといわれるので,「四方ノ海」は国内格差・相違を指しているのではなく、やはり世界または東アジアを指しているのだろう。
「…など波風の立ち騒ぐらむ」、これは疑問形である。色々な思いが込められているには違いない。しかし、直面しているのは国際関係である。だから、戦争回避あるいは戦争を乗り越える手段と解答を持ちあわせていないことの表明でしかない、と言わさるを得ない。やはり徹底した性善説なのだ。

「和を以て尊しとなす」日本の国是、これは尊い精神であり日本の美徳である。しかし、対外関係に対してその同じ心づもりで対処したのでは、日本の安全保障を維持できないという誰もが認知している問題に逢着する。ではどうすればよいか? これについて明確な解答を出せるものはいなかった。この事を考えていかなければならないと思う。(つづく)

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