時代の空気にどのような距離感を持つか

今から10年ほど前、日本の政治状況が民主党政権に大きく傾いた。その頃、民主党政治家の中に「あの人は空気が読めないから...」などと平気で発言していた議員が何人かいた。その発言を聞くにつけ、この民主党政権の危うさを感じていたものだ。マスコミや街の声も、「空気を読む」ということが、なにか目新たしいポーズのように会話の中にしばしば登場していた、情けない次第だった。

この「空気を読む」動向と大衆の動きが結びつくと、大変なことになる。その現象が、歴史上しばしば起こっている。だが、フランス人は持ち前の個人主義の性向から容易に空気を読んだり、それに染まったりしない。数少ない私のフランス人の知人からもそのように感じるのだ。また、フランスの南方スペインにおいては、20世紀のはじめに、オルテガ・イ・ガセットが「大衆の反逆」を書いて、大衆と空気の結びつきに鋭い警告を発している。

「空気」とは恐ろしいもので、ないがしろには到底できない。ファッションとかハヤリ事にまつわる「空気」であれば、問題は少ない。だが、時には、その方向が変更不可能だったり逆らえない空気だったりすることがある。例えば、昭和15年-16年の日本が対米戦争に向かう時期、開戦に向けた「空気」がこれに当たる。また、今日、平成から令和への御代変わり時期に進行している消費税10%への引き上げへの「空気」もこれに当たる。いずれも、非合理であり、踏みとどまるべきである、と言えるかもしれないが、空気の中にいる個々人からそのような声はごくわずかしか出てこないのだ。

何故だろうか。このような空気は、変更不可能な空気で多くの人が逆らえないと感じるからであるが、そのようなあがらえない空気が醸成されるには、一定の条件がある。それは、結論的に言えば、ある「空気」の背後で行われる着実な準備形成であろう。

例えば、対米開戦のときは、政治的社会的運動としての大政翼賛会の立ち上げとその拡大、ならびに陸・海軍における着実な開戦準備であったろう。今の消費税引き上げは財務省の執拗で着実な準備工作に違いない。準備が完了すると「空気」は変えられないという人がいる。そんなことはないはずであるが、日本人はそこで諦める傾向が強く弱点をなしている。現に、対米開戦のときは全権を握る昭和天皇ですら結局開戦と止めることができなかった。消費税においておやである。つまり、個人が自立し合理的思考に沿ってものが言えなければ、止めることができないのだ。

ごく最近、チャンネル桜の討論番組で、文芸評論家の浜崎洋介氏が、つぎのように述べていた。近代の日本では、個人が「空気」に対する距離感をどのように持ちうるかが極めて重要な分かれ目で、社会に合理的思考が保たれるかどうかはそのことにかかっているという趣旨であった。全面的に賛同したい。

米国南部の作家であるMark Twainも同様の趣旨のことを述べている。彼の箴言を以下に掲載する。

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