瓦礫の街に咲いた幻の「花の街」- どん底で夢見る力

花の街
作詞:江間章子

七色の谷のを越えて 
流れてくる 風のリボン
輪になって 輪になって 
駆けていったよ
歌いながら 駆けていったよ

美しい海を見たよ 
溢れていた 花の街よ
輪になって 輪になって 
踊っていたよ
春よ春よと 踊っていたよ

すみれ色してた窓で 
泣いていたよ 町の角で
輪になって 輪になって 
春の夕暮れ
独り寂しく 泣いていたよ

(作詞は昭和22年頃。発表は昭和24年1月4日開始のNHKラジオ番組「私の本棚」のテーマ曲として)


「花の街」を作詞した江間章子さんの解説
● 「花の街」はわたしの幻想の街です。戦争が終わり、平和が訪れた地上は瓦礫の山と一面の焦土に覆われていました。その中に立って私は夢を描いたのです。ハイビスカスなどの花が空中に浮かんでいる「平和」という名から生まれた美しい花の街を。
詩の中にある「泣いていたよ、町の角で」の部分は、戦争によってさまざまな苦しみや悲しみを味わった人々の姿を映したものです。この詩が後になって、いっそう私の幻想の世界は広がり果てしなく未来へ続く「花の街」となりました。
中学1年生用の音楽教科書『中学生の音楽1』(教育芸術社、平成9年)より

● 昭和22年の東京は空襲の残骸と戦後の混乱で、瓦礫と闇市に埃が濛々としていた。
江間章子NHK「婦人の時間」の委嘱で”今に東京にも花咲く街になってほしい”という、夢と希望を託して、この詞を書き上げた。”荒れ果てた当時の日本を見ていた私は、私の心に抱いていた幻の理想の街、神戸を頭に思い浮かべて書いた。神戸へは行ったことはなかったが、乙女心に神戸というエキゾチックな街に憧れていたのですよ”と述懐している。(日本抒情歌全集1の解説より)
出典:日本の歌百選〜親から子、子から孫へ〜
http://www.fureai.or.jp/~t-mura/jojouka-hahanomachi.html

●【花の無い焦土の花の街】
 江間章子著『<夏の思い出>その想いのゆくえ』(宝文館出版、昭和62年)所収の一節「<花の街>のまちを想う」を抜粋する。
 NHKのTVの名曲アルバムの時間で「花の街」が流れてきたときに、それは“作者のイメージとは違いすぎて意外で”、“まず現れる南房総辺の菜の花が咲く風景では困るのである。<花の街>だから、当然<花>がなければおかしいのだが、じつは、その花は手が届くところにあってはこまるのである。”
 “詩<花の街>は、私には幻想の街、夢のまちであった。戦争が終って、平和が訪れたという地上は瓦礫の山、いちめんの焼土に立って、思う存分肺いっぱい吸い込んだ<平和>という名の空気が私に見させてくれた夢が<花の街>であった。”
 “<花の街>の詩のなかで、「泣いていたよ/街の窓で・・・・」という一行も、焼土に佇つ、戦いに敗れた国の庶民の、住む家も、仕事も失った、途方にくれた悲しみの姿を映しているのだと、作者自身、当時を振り返って想う。
 <花の街>の詩には、そうした秘密が隠れている筈である”
 “これを若き日の、まだ少年らしさが漂っていられた團伊玖磨氏が作曲された。・・・(中略)・・この曲は、まさしく、私の幻想を拡げ、羽ばたかせてくださったものである。”
 こういったことから、江間章子はこの歌は三番まで歌うことが大事だと主張しています。
出典:Web「池田小百合 なっとく童謡・唱歌」: http://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyo00dan.htm



「花の街」誕生の時代背景
昭和20年は、日本のそれ以降の存亡かかかわる年でした。それは今から振り返ってそう言えることであって、当時の人は失意と混沌の社会の中で食い物の確保に追われており、ちょっと今からでは想像できない気持ちで生きていたに違いありません。

その年の8月終戦を迎えます。それから、いつ終わるかもしれないGHQの占領支配がはじました。人々は食糧確保に奔走する以外は、うなだれていました。またニュースといえば、新聞かNHKラジオ放送からしか得ることができない状況で、NHKは、GHQの要請を丸呑みしつつ、その洗脳指示の背景を隠すという陰湿な手をつかい、かの悪名高い「真実はかうだ」とその続編「真相箱」を繰り返し繰り返し、放送しました。人々はその放送内容を気持ちでは反発していたに違いありませんが、その執拗な語り掛けによって、ますます自分と日本を否定された心境になっていきます。

その翌年の昭和22年にこの「花の街」は、作詞されたようです。焼け野原の風景にちょっとずつ人々の営みが始まりかけていました。そして、終戦から3年半近くが経過した昭和24年1月4日から、NHKはちょっと今までの姿勢を変更して、「私の本棚」というラジオ番組を開始します。この番組のテーマ曲として選ばれたのが「花の街」だったのです。

このラジオ番組は、それ以降一番のラジオ長寿番組になり、趣向をちょっとずつ変更しながら2008年3月まで続きました。それはさておき、最初の番組テーマ曲であった「花の街」は、作詞家江間章子さん自身が語っているように、戦争による焼野原の街(たぶん東京)の空に描いた「幻想の街」なのです。さらに注目に値するのは、その比喩を多く含んだ秀逸な歌詞でしょう。

個人的な戦後体験と「花の街」の味わい方

●私にとっての戦争体験
この8月のお盆を利用して、故郷に行った話から始めます。妻の実家である岡山県津山市と我が家の長兄の住む山口県山口市を恒例行事のように今回も訪問しました。私は、山口市の中心にあった通称「幽霊屋敷」で1歳から3歳頃まで暮らしていました。ちょうど「花の街」の曲が誕生した時代です。かつて、「幽霊屋敷」は荒れ果てていたとはいえ、広い武家屋敷のたたずまいを保っていました。幕末時に討幕武士の密会所であったとかで、切った張ったの討ち入り沙汰が繰り返された屋敷だったようです。その屋敷の表は比較的狭い小路になっていて、側面が街中を流れる川(一の坂川)に面していました。今回、その「屋敷」跡とその周辺を長兄と一緒に久しぶりに散策しました。

この屋敷の思い出としては、幕末期の屋敷のいわれについてはほとんど無く、もっぱら、ぼんやりとですが、屋敷の前の小路をよく通っていた進駐軍兵士のショット映像のいくつかです。記憶中の彼らは、白人、黒人、オーストラリア人、いずれも皆、軍人でGI(米国軍隊)キャップをかぶって背の高い巨体だった。連中は、なぜか、狭い小路なのに「幽霊屋敷」前をよく通っていた。その理由が、今回の散策ではじめて氷解したのだった。現在自衛隊山口駐屯地になっいる所は、占領時代はGHQ駐屯地として摂取されていました。その駐屯地の正門から真直ぐ伸びる道が「幽霊屋敷」の前の小路に繋がっていて、そのさらに先に、進駐軍の何かの矯正施設があったからです。この矯正施設は今はありませんが、小学生時代柔道練習のため通いつめた大きな武徳殿の裏にあたります。駐屯地と矯正施設、その二箇所の間は、ジープなどではなく、歩いて行き来する距離だったことがわかったのです。

私がよちよち歩きをするようにたった時分、玄関前で小路に面した生け垣に向かって小石を投げて遊んでいた。ある時、小石が生け垣を通り抜けて道に飛び出し、たまたま歩いていたGIにあたり、振り向きざまに睨まれたことがあった。私は慌てて玄関内に逃げ帰りました。その時の恐怖は、今でも時々フラッシュバックしてくるものの一つです。

その後、我が家は旧市街からちょと郊外に引っ越したが、駐屯地の飛行場兼練兵場にはむしろ近くなり、よくそこに遊びに行ったことがあります。折しもGIたちは野営訓練の最中で、大型ドラム缶に牛肉を詰め込み煮炊きしているところだった。私はたぶん物欲しそうに眺めていたのでしょう、子供の私にも、肉を分け与えてくれたのだが、あんな大きな肉片をほうばったことはかつてなかった。それは淡白な味で特に美味しいとも思わなかった。また、バターは、大型缶に入っていて、柔らかい無塩バターだった。そのような時、彼らの食生活の豊かさにちょっと驚かされたものである。が、そのことが特に大きな精神的インパクトを私に与えたわけではなかった。国が違えば--当時日本は独立国ではなかったが--豊かさに大きな開きがある、だからどうだというのだ、という気分であった。

山口の街は、戦争中、爆撃機が飛来してきていたが、幸い爆撃の被害を受けずに済んだ街です。それは、妻の実家のある津山市も同じことだった。街は小京都のたたずまいのまま残ったのです。私の戦争に関する記憶は、GIの存在しかありません。焼け野原の街をうろついたことも、食料確保の苦労は、両親と兄弟はしたようですが、幼児の私はしたことがありませんでした。

そういう訳わけだから、実は「花の街」については、小学校の中学年の唱歌として習った時、極めて好印象を持っていましたが、私は、この歌が持っている背景と共有できる体験を有してはいないのです。したがって、私のこの歌の味わい方は、後に学んだこと、見聞きしたことの上に成り立っています。

●「花の街」(1947)の歌詞を深読みすると
まず「花の街」を聞いてみて,そのメロデーが軽快で明るいにもかかわらず、その歌詞は、ちょっと暗喩めいていて、さらに1・2番と3番とでは歌心の違いが気にかかります。まず、各番の主語を探してみると、1番で「流れてくる」のも「駆けて行った」のも明らかに「風のリボン」です。さらに2番で「海を見た」のも「踊っていた」のも、1番に登場する「風のリボン」だと思われます。

しかし、3番の「泣いている」のはだれでしょうか? ここも「風のリボン」だとするとちょっと理解に苦しみます。ここでは主語は隠されていると受け取るべきでしょう。では、なぜ明示されていないのでしょうか。それは当然、当時の同時代人であれば、言わずもがなだからです。作者の江間章子さんが後日述懐しているように、それは焼野原を徘徊していた敗戦国の日本人そのものであり、その日本人が「泣いて」いたのです。本当に目を覆うような悲惨な現実の世界、それを目隠ししないで、歌い込むところが素晴らしいと私は考えます。

さて、この歌で主役だと思われる「風のリボン」とは何なのでしょうか。ここで、私の直観によって解釈すると以下のようになります。「風」は、具体的かつ物理的空気の流れのことであり、この日本の大地の上で吹いているちょっと湿気を帯びた海洋性の風にほかなりません。つまり外来の一見ドライでおいしそうな、連合軍が押し付けようとした外来の匂いを帯びた風ではなく、日本古来のものなのです。

次に、リボンとはなんの暗喩でしょうか?  まず第一印象としては、「春よ、春よ」と明るい春を告げる暖かで懐かしい「風」の流れでしょう。そして、「輪になって、輪になって」踊っているのですから、幾筋かの風の流れなのでしょう。ところで、この「風のリボン」は、ただ自分たちだけで踊っているのでしょうか。私にはそのように思われません。三番で暗示されているはずの現実に泣いている人々を巻き込んで踊っているのでしょう。つまり、「リボン」は、暗喩めいていて実は暗喩ではなく、文字通り意味があるのです。それは、<リボン=きずな>でしょう。きずなは、字を当てると「疋綱」で、元来、馬をグループごとに連結する綱のことであり、通常使われる「絆」は、意味をとったアテ字だと思われます。リボンと馬具ではちょっと縁遠いように見えますが、きれいに言い換えれば、リボンは「きずな」といっていいでしょう。もちろん、ここでグループごとに結びつけるのは馬の群れではなく、戦災者の群れでなければなりません。

つまり、「花の街」のテーマは、逃げられない現実、そこから目をそらさず、私たちの伝来の文化と精神の失わず堅い絆でお互い結びつき励まし合い、かつてない戦禍から立ち直ろうという呼びかけであると受け取りたい。そして、その幻は確実に成就可能であることを、団伊玖磨が作曲した軽快なメロデーが謳い上げています。重いテーマを描く上で、作詞と作曲がベストマッチしているようで、好感が持てます。さすがに、洗練された都会風の歌ということができましょう。

さて敗戦の惨禍から65年たった今日、2011年3月、再び日本は惨禍に見舞われました。そしてこの「きずな」が叫ばれました。その惨劇の危機感が薄らいできている今日、再び「花の街」は歌われる必要があるといえるでしょう。もちろん戦争の惨劇と大震災の惨劇では、その規模と深刻さは比べようがありませんが。

●2012年 震災復興支援ソング「花は咲く」
「花は咲く」(全作詞:岩井俊二、作曲・編曲:菅野よう子)は、東日本大震災+福島原発事故直後の2012年「NHK東日本大震災プロジェクト」のテーマソング|として制作され、復興支援ソングあるいはチャリティーソングとして、一時広く歌われた。

その歌詞は、あくまでも復興支援者の気持ちを歌っている。その支援者の輪は、一時期、日本全国の若者を中心として日本市民に広がり、台湾市民、欧米の音楽に携わる人々を巻き込んでいったのです。いわばグローバルな広がりを見せたということができる。しかし、この曲は、大震災という惨劇の被災者が主人公なのではなく、彼らの苦しい心、これからの生きていくための焦りと決心、そして未来への夢想といったものは歌いこまれていないのです。

つまり、「花は咲く」は、惨劇のいわば部外者の(何かをしなければ)というの気持ち歌っているのであって、「花の街」(1947)が背景に持つ惨劇の当事者の幻想やこれからの決意はテーマになっていないのだ。つきつめれば、現代の惨劇には、まだ「花の街」(1947)に匹敵する歌は生まれていないというべきだろう。

「花は咲く」の作詞を依頼された若き映画監督・岩井俊二がその創作態度と動機を漏らしたYouTube (https://www.youtube.com/watch?v=_h4RPXPp25I)をみると、部外者である自分に苛立ちながらもやはり「芸術家」としての彼は部外者でしかないという気持ちとスタンスがにじみ出ています。それはある意味、当然と言えるかもしれませんが、部外者の大衆が、この歌に群がり自分たちの「善行」に満足する動きはいかがなものでしょうか。

福島の原発事故の被災者としばらく接した私の経験から言えば、彼らには、また心ある日本人には、悲劇の現場にしっかりと足をおろし苦悩し、そこから彼ら自身が立ち上がれる「幻影」を謳歌する歌、それはかつて「花の街」であったとおもわれるが、そういう歌が再び必要とされているという思いが強かったし、被災者が援助ボランテアに容易に擦り寄り、ボランテアが「きずな」軽々しく口にすることには疑問を感じていた。被災者が、外からの「きずな」に失望し、彼らの間にニヒリズムがはびこる前に、彼らを本当に叱咤激励し、勇気づける歌が必要なのだ。

●追伸
ちょっと横道にそれるが、日本人が陥りやすいお人好し加減を揶揄する言葉に「お花畑」があります。現憲法前文にうたわれている精神、というか空文はそれをよく表しています。「花の街」は、我々日本人、さらに言えば「元日本人」の伝統であり文化なのであって、全人類のものとは言い難いのです。特に敵対的な東アジアの諸民族と共有しうるものではないでしょう。彼らとの関係には当然別の規範が必要です。ともかくそれは「きずな」ではありません。排外主義でこういうのではありません、対外関係は是々非々のレアリズムを基礎にする必要があります、アタリマエのことですが。くれぐれも注意を怠らないようにしたいものです。

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参考:
● You Tubu 花の街 - 江間章子 - 團伊玖磨 - Hananomachi - We love Japan

● 「花の街」(歌:ソプラノ歌手中村初恵)

2011.06. 東日本大震災被災地(宮古市避難所にて)


このブログと共鳴する記事:

江間章子さんの『花の街』雑感(作成日時 : 2009/12/26)
アカバナー通信」 https://yamagusuku-otoh.at.webry.info/200912/article_26.html

● 池田小百合 なっとく童謡・唱歌
http://www.ne.jp/asahi/sayuri/home/doyobook/doyo00dan.htm


● 福島 フクシマ FUKUSHIMA--津波被害と原発震災に立ち向かう人々とともに
http://fukushima20110311.blog.fc2.com/blog-entry-1.html


津波と火災でガレキとなった福島県いわき市に隣接した久之浜、かろうじて残った建物に花が咲いた

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