風のかたち
私は昔から、閉ざされたところが嫌いだった。そうだという人も多いと思うが、私の場合は、ちょっとした「閉所恐怖症」なのだ。病気というほどではないが、ともかく閉鎖されたところに居るのがいやなのだ。都会の駅近辺に張り巡らされた地下道は大嫌いだ。そこを通過する必要がある場合でも、たいていは地上の道を歩く。しかし、病気ではない証拠に、たとえ極端な閉所にかなりの時間、強制的に入れられても、パニックになることはないし、体調不良になることもない。
たぶん精神的な性癖なのだろう。私には、この性癖の裏に、小さい頃に見た映画の影響があることを自覚している。それは、たしか東宝の怪獣映画「ラドン....」であったと記憶しているが、炭鉱の中の惨事の場面が、恐怖に満ちた耐え難いシーンとして脳裏にこびりついている。その「すりこみ」以来の閉所嫌いなのだ。一方で、宮崎駿監督のアニメ映画には、快感を覚える。彼の思想、歴史観がどうのということは別にして、彼の映画、とくに初期の作品は、飛翔感に溢れているし、風が常に重要な場面展開に使われていてよい。このことは、しばしば指摘されていることだ。
なぜ閉所を嫌うかというと、そこには風が無いからだし、ともかく、そこを出て風に当たりたいからだ。そんな時、開けた視界が目の前に広がっていれば、もちろん、申し分ない。しかし、私には、風が肌に触れることの方が重要な意味を持つ。風に身をまかすと、安心感をもてるのだ。それはまったく逆だ、という人もいよう。閉所のほうが外からの危害を避けられて安心できる、風の吹きぬけるような外はどちらかといえば不安を感じる空間だと。これは、私とはまったく逆の精神構造だといえよう。私の心の中には、いつも「風」が意識されていて、私を離れようとしない。この風の正体は何なのか?
ブログを立ち上げるにあたり、サブタイトルを「風のかたち」とした。私としては、思い切った決断だ。風に色があるか? 風に形があるか? この、ちょっと宗教的かつ芸術的、さらにいえば政治哲学的な問いを意識して決めたのだ。いずれこの問いを掘り下げていかなければならない、と考えている。
写真は、モニュメント「風のかたち」TOTONKO-filtro de diseñoより、
http://totonko.com/2008/08/forma-del-viento-narchitects/ (移動中)