抗議行動の活力と多様性について、「アジサイ革命」は本当に花開くのか?


7.29国会包囲デモで、主催者が用意したマイクを使って、国会議員の数名が連帯の挨拶をした。その最後に、亀井静香が挨拶に立って、「…民主党は帰れ!というのはよくない」と切り出した。そして、原発を止めようという運動はいろいろなグループの力を結集すべきであって、誰かを排除しようというのはおかしい、という趣旨のことを述べていた。亀井静香の言いたいことはモットもであるし、当たり前のことである。

政治的な抗議行動は、多様であるべきであるが、抗議の意思表明は力強さを増していかなければならない。2つのことは、普通に考えれば、相反することではないはずだ。ところが、現実にはあたかも2つのことが相反するかのような主張と論評が存在するようで、それが問題なのである。

主催者の「首都圏反原発連合」は、自らの主催意図を持っているのは当然であるが、参加者に過激な行動に出ないよう、あるいは「原発反対」以外のイッシューを掲げないようになどと自粛(自縮)を求めるのはおかしい。参加者に対してそれをやってはいけないはずだ。

そのことは、抗議行動は何故起こるのかの根本を一顧すれば解るはずだ。権力の正統性の源泉は国民にある、つまり「主権在民」ということだ。だから、選挙がとてつもなく重要なのだが、同時に、現政権のように背信行為による暴政に対しては、国民個々人の抗議行動の側に「正義」があるはずだ。この正義は、多少の分別を前提にしても、民主主義社会では最優先されるべき「正義」であるはずだ。国民一人一人が、敢えて抗議行動に出るのは、我々の側に正義があると思うからである。

このような正義の行動に、主催者だからという理由でタガをはめようとするのは、運動の「私物化」といわれても仕方がない。あってはならないことだ。

東京新聞」の論説副主幹である長谷川 幸洋は、主催者側の自粛行動を正当として、以下のように述べてる。

(以下引用)

2012年08月03日(金) 長谷川 幸洋
(前半省略)

 週末の官邸前抗議行動についても触れたい。
7月29日の国会包囲デモで注目すべき展開があった。多くの参加者たちが歩道から車道にあふれ出て一時、国会議事堂前の車道を占拠してしまったのだ。たしかに人波は多かった。だが、あふれた車道の真ん中には「全学連」とか「早稲田大学」とか「津田塾大学」といった赤い旗がひらめていた。

その直前まで「再稼働反対」というコールが流れると、私の周囲の人々は「車道を開けろ」と声をそろえて応じていた。これは初めてである。車道に人波があふれた直後、主催者である「首都圏反原発連合」のMisao Redwolfさんが警察・指揮車の高性能スピーカーを使って「危ないから後ろのほうからゆっくり下がって」とか「キャンドルの火は消して」と呼びかけると、すぐ周囲から「やめろ」という声が上がった。

つまり街頭行動が少し激しくなってきた。自然発生的な動きならまだしも、もしも組織的なグループが扇動していたとすると、先行きが心配になる。挑発的な行動は少しずつ先鋭化していくかもしれない。すると、普通の人々がついていけなくなる。そういう懸念を私がツィッターでつぶやいたら、ツィッター上で「これまで煽っておいてマッチポンプ」とか「民衆の気持ちを無視している」といった批判があった。

私が抗議行動について書いたのは、7月18日付で公開したコラム「それぞれが自由に集まり、整然と帰っていく『個人』の力 〜代々木公園『さようなら原発10万人集会』で感じたこと」が最初である。そこで、こう書いている。

〈  私がもっとも心を動かされたのは、官邸前の抗議行動が終わるときだった。
それまで官邸前でも国会議事堂前でも前のほうに進もうとすると、人の波が多すぎて、にっちもさっちも動けなかった。ところが時計の針が7時半を回るころから、5人、10人と、前方から後方へと戻っていく人が出てくる。
(中略)
抗議行動が終わる午後8時だった。
抗議のコールやドラムの音はまだ鳴り響いていたが、帰りを急ぐ人たちは黙々と歩いていた。杖をついて歩く老夫婦がいる。新党日本田中康夫衆院議員が自ら現場で配った白い風船を手にした母子連れがいる。(中略)整然とした帰り姿。私は、こういう終わり方を予想していなかった。
帰る彼らを見ながら、これは私が経験した70年代のデモとはまったく違う、と思った。かつてのデモは文字通り「闘争」だった。現場には明確な目標があった。首相官邸だろうが街頭だろうが、警察が阻止線を張っていれば、そのバリケードを実力で突破する。突破できなくても体当たりする。それが70年代の戦いだった。だが、今回の抗議行動にそんな目標はない。街頭で声を上げる。時間が来ればそれぞれ勝手に帰る。それだけだ。声すら出さず、ただ来ただけの人も大勢いる。
(中略)
70年代のデモはしばしば暴力的な行動を伴った。だが、今回はまったくといっていいほど衝突ざたがない。参加した人々にとっては「バリケードを突破する」ことなど、初めから目的ではないからだ。  〉

 はっきりさせておきたい。

私が抗議行動を評価するのは、それが秩序とある種の品格を保ち、暴力を否定しているからだ。だが「車道を開けろ」のコールが暗示するように、行動が次第にエスカレートして街頭での「対決」を目指すなら、話は別である。まして、私が対決型の街頭行動を「煽った」などということは一度もない。対決型のデモは1960年安保反対闘争、70年安保闘争と繰り返された。それは結局、勝利しなかった。

今回、野田は抗議行動の主催者たちとの面会を検討しているようだ。多くの声を無視できなくなったからだろう。だが行動が先鋭化して、たとえば警察と衝突するような事態になれば、政府の対応も変わるかもしれない。集団が意図的に秩序を乱していくなら、まずは秩序の維持回復が政府の仕事になる。本日8月3日夕にも官邸前抗議行動が予定されている。「人々の声」を消さないために、平和的な行動であってほしい。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33164?page=4

(以上引用)


東京新聞」は、すでに数少なくなった市民派新聞の1つであって、私も購読している。しかし、その論説副主幹が、ブログ「現代ビジネス」の「ニュースの深層」に最近書いたこの論説は、ちょっとおかしい。これは、一見包容力があり、持続する運動を支持している意見にみえるが、事実は、まったくその逆の内容をもっている。たとえば、運動が先鋭化すると「普通の人々がついていけなくなる」とか、「人々の声」を消さないために、平和的な行動であってほしいとかいうが、これはもう立派な排除の理論ではないか。

抗議行動には多様なそれぞれの行動形態があるべきこと、そのことによって運動が活力を獲得していくことに、長谷川 幸洋は思いをめぐらせていない。つまり、かれは、ナマの感情から沸き起こる活力のある正義の行動を締め出そうとしているのである。なんのために? 権力の規制が強まるからというのが、主な理由であろう。確かに、このことに配慮することも必要である。しかし、抗議する者にとっては、それは第一の重要事ではないだろう。主権在民、それを行動で示すことが、唯一の正義なのだ。

長谷川 幸洋に逆に聞きたい、何のための抗議行動なのか、と。「それぞれが自由に集まり、整然と帰っていく」だけの行動が、暴政に対する正義の行動なのか?

それと、もう1点に言及すると、1960年安保反対闘争、70年安保闘争との対比がよく持ち出されるが、いずれも、当時の実態をわきまえた物言いとは思われない。あの時代の闘争は、確かに敗北した。様々な功罪が存在したはずだ。このことに今触れないでおこう。しかし、あの時代の抗議行動の全てが「対決型のデモ」であったわけでは決してない。「ベトナムに平和を市民連合」いわゆる「べ平連」と呼ばれる市民運動も並存していたことを忘れてはいけない。つまり、60-70年代の闘争は、多様な社会層とさまざまな考えの総体としての社会運動であったのであり、全ての力の結集を主眼としていた。そうでなければ、あのような大きな社会運動にはならなかったのだ。

「ウチゲバ」と呼ばれる運動体の中の内部抗争が確かにあって、マスコミの標的にされた。これにも肯定面と否定面の両面があるが、いずれにせよ、それは学生の政治セクトの中の話だ。そこには、残念ながら、排除の理論が働いていた。しかし、全ての学生がそれに関与していたわけでもないし、ノンセクト・ラジカルが、当時の学生運動の主流であったことが忘れられている。この一見目立った暴力沙汰だけを誇張して取上げようとするのは、報道人としての限界でしかない。

私は、元来、このような運動内部の分裂を誘うようなことを敢えて言及したくはない。亀井静香がいうように、抗議行動は全ての力を結集すべきなのだ。しかし、運動を自粛の方向に誘導しようとする意見は、ここでたたいておかなければならない。

いずれにせよ、現状では、抗議行動が継続し新しい活力を身につけるためには、新しい核、あるいは新しいカリスマ性の登場が必要だろう。

運動が転換点に差し掛かっていることについては、天木直人の以下のブログがよく核心をついていると思われる。

(以下引用)

2012年08月04日
野田首相との面会を求める反原発市民団体代表とは何者か

  これから書くことは8月1日のブログ、「こいつらだけは許せない 菅、辻元、福山の風見鶏政治家そろい踏み」、の続編である。
 その後の報道をみると野田首相が反原発の市民団体代表らと近く面会をしたいと言いだしているらしい。
 それを知ってますますこの動きの胡散臭さを感じる。
 菅、辻元、福山などの動きが、その動機において不純であることについてはもはや誰もが見抜いてる。
 そしてそれに乗ろうとする野田首相の思惑も明らかだ。
 だからそんな菅・辻元・福山ら民主党議員と野田首相の合作によるシナリオの片棒を担ぐような反原発市民団体の代表とは何者なのか、私はその顔が見たいのである。
 そもそも大飯原発再稼動反対を叫んで官邸の前に集合するものたちの大部分は、私を含めて、いかなる団体、組織にも属していない者たちだ。
 いかなる政治的思惑も無く、ただひたすら野田政権の原発政策に反対し、原発の再稼動は止めろと叫んで抗議する、それだけである。
 彼らにはそのような自分の思いを代弁する市民団体やその代表など要らない。
 彼らが願うのは野田首相と会うことでも、野田首相と駆け引きをすることでもない。
 原発再稼動を止めろ、この国から原発をなくせ、間違った政策を止めろ、と叫ぶだけだ。
 その叫びを聞いて野田首相が政策を変えればいいだけの話だ。
 そんな我々とは関係のない反原発市民団体の代表たちは、どういう基準で選ばれたというのか。
 彼らがどういう資格で我々一般的なデモ参加者の気持ちを代弁するのか。それを正当にできるのか。
 なによりも彼等は野田首相と話し合って原発再稼動を止めさせることが出来るとでも いうのか。
 日本から原発をなくしますと野田首相に言わせる事ができるというのか。
 決してそうではないだろう。
 野田首相と反原発市民団体との意見交換は不毛に終わる。
 欲求不満の、後味の悪いものとなる。
 野田首相菅直人らの、「市民の声をよく聞いて原発政策を進めていく」といううアリバイづくりやパフォーマンスに終わっておしまいだ。
 最悪である。
 こんな茶番に喜んで付き合おうとしている市民団体の正体を私は見極めたい。 
                                         了

http://www.amakiblog.com/archives/2012/08/04/#002346

(以上引用)



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