「東京新聞」の社説:マスコミがあるべき責務へ取り組んでこなかったことへの自責

2日連続して、東京新聞関連の記事を書くことになった。

昨日の、東京新聞論説副主幹の長谷川 幸洋を取上げ、その甘さをちょっと批判した。しかし、この論説は彼個人の考えであって、必ずしも新聞社としての意見ではなかった。もとより、東京新聞に載る記事に社としての「党議拘束」のかかった記事などあるのだろうか? 各ページ、各記事ごとに視点・立場が異なっているように感じている。よく言えば多様性に富むともいえるが、他の言い方をすれば、統一性がなくアナーキーだということになる。しかし、私にとっては、これが「東京新聞」の魅力なのだ。

昨日(8月5日)の「東京新聞」の社説は、マスコミの責務を問い、それに答えてこれなかったマスコミの自責と反省を述べている(長谷川氏が書いたか?)。他紙も、幾つか、この種の社説を載せたことがあるが、読んでいても、その空々しさにあきれたものが多かった。しかし、今日の東京新聞は明らかに違う。マスコミ人としての真摯な反省を吐露し、将来どう取り組んでいくべきかに大いに悩んでいる。もちろん、具体的な将来の方策が見つかっているわけではない。市民の「目線」を大切にし、かつ真摯に悩んでいる姿を社説に書くところが、「東京新聞」の秀逸さである。

今日の東京新聞は、ほめたい。以下、同紙に掲載された社説の全文を引用する。

東京新聞」社説 2012年8月5日 
週のはじめに考える リセットできない日本

 政権交代から三年目の夏を迎えました。あれから日本はリセットできたでしょうか。原発再稼働や消費税問題をみると、何も変わっていないどころか…。
 二〇〇九年八月の総選挙で長く続いた自民党政権から民主党政権に代わったとき、人々の間には「これで日本の政治が変わる」という期待感が盛り上がりました。
 民主党が掲げた「脱官僚・政治主導」と「地域主権」の旗は、たしかに新鮮に輝いていた。

脱官僚に失敗した政権
 ところが三年たって、期待感は見事なまでに裏切られたというほかありません。たとえば政治主導。国家戦略室を設けて担当大臣が官邸直結で国の大方針を詰めていくはずでした。
 そのためには、まず官僚を動かす基盤となる根拠法を定める必要がありますが、いまに至るも法律がありません。国家戦略室は「内閣総理大臣決定」という紙切れ一枚が設置根拠なのです。
 その結果、いまでも担当大臣がいて議論はしていますが、官僚からみれば「おしゃべり会議」同然です。役所の都合がいいように結論を誘導して閣議決定してしまえば、実際に予算を要求して政策を動かすのは相変わらず各省に委ねられています。
 そもそも役所の方針と異なる政策が出てきません。最近の日本再生戦略が典型です。全部で百十九ページもありますが、具体的に記されたのは天下りの受け皿になる官民ファンドの強化や新設ばかり。残りはほぼ官僚の作文です。
 地域主権はどうかといえば、国の出先機関改革一つとっても、目覚ましい進展がありません。たとえば雇用状況がこれだけ深刻なのに、国のハローワークを地方の実情に合わせて運用する特区は東西でわずか二カ所、埼玉県と佐賀県で始まっただけです。

原発事故の反省どこに
 地方が自由に使える財源として一括交付金の導入も政権公約の一つでした。しかし、総額二十兆円といわれる各省庁のひもつき補助金のうち一括交付金化されたのは、一二年度予算で八千三百億円にとどまっています。
 これも本をただせば、政権が既得権益を手放したくない官僚と本気で戦う姿勢がないからです。霞が関の本質とは何か。ひと言で言えば「中央集権・東京一極集中の維持」に尽きる。脱官僚・政治主導ができないから地域主権も進まないのです。
 消費税引き上げをめぐる議論もあきれた展開です。野田佳彦政権は「社会保障と税の一体改革」と叫んでいたのに、自民、公明両党との三党合意を経て、いつのまにか増税の財源が公共事業に化けてしまいそうな雲行きです。
 それは三党合意で「減災と事前防災」を大義名分にして公共事業に資金を重点配分する条項が盛り込まれたのがきっかけでした。
 東日本大震災を経験したので一見、もっともらしいのですが、初めから「増税分は公共事業の財源に充てる」と掲げていたら、国民は納得したでしょうか。増税法案が衆院を通過したとたんに、北海道や北陸、九州・長崎の新幹線着工も決まりました。これでは、だまされたような気分です。
 それに原発問題。関西電力大飯原発が再稼働された後、新たに設置される原子力規制委員会の顔ぶれが国会に提示されました。原子力安全・保安院原発を推進する経済産業省の下に置かれていたことが安全規制が形骸化した理由です。
 だから規制委は原発推進勢力である役所や業界、学会の「原子力ムラ」からの独立こそが重要なのに、提示された委員長や委員候補のうち二人は相変わらず原子力ムラの住人です。福島事故の反省はいったい、どこにあるのでしょうか。
 こうしてみると、残念ながら「日本はリセットに失敗した」と言わざるをえません。原発再稼働に反対する抗議行動の底流には、変わることができない政治の現状に対する人々のいらだちが潜んでいるように思えます。
 もう一つ。国会議事堂包囲デモがあった七月二十九日、日比谷公園でたまたま会った村井吉敬早稲田大学アジア研究機構研究員教授の言葉が耳に残っています。「三年前の政権交代でマスコミも変わるチャンスだったのに変われませんでしたね。なぜ変われないのか」
 こう問われて「それは霞が関や永田町という取材源が変わらず、取材源との距離も取材方法も変わらないからです」と答えるのが精いっぱいでした。

◆「人々の声」を伝えねば
 いまマスコミ不信の声はあちこちで聞かれます。抗議行動はマスコミが「人々の声」を十分に伝えてこなかった裏返しでもあるでしょう。私たち新聞はどう変わっていくか。そこをしっかりと考行動していきたい。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012080502000103.html



私が注目するのは、論説中以下の部分である。

「残念ながら<日本はリセットに失敗した>と言わざるをえません。
原発再稼働に反対する抗議行動の底流には、変わることができない政治の現状に対する人々のいらだちが潜んでいるように思えます。」

 マスコミとして、こう云い切れるのは、立派。ならば、人々の正義の直接行動を「全面的に」支持すべきではないか。また、その先頭に立った論陣をもっと張るべきではないか。




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